20 母親
サンドラがライネに示したかったこと、それはきちんと理解しているつもりだ。
彼女は優しくライネにも同情してくれて、賢い。
立場のないライネが新しい相手を見つけるために、障害になるであろうものを取り除こうとあんなに真剣になってくれる。
そういう部分はとても素敵だと思うし、ライネ自身も言えればいいのだ。
サンドラの義兄になる予定のジェレミーがきちんと自分の間違いに気が付いて、誰よりもユスティーナを大切にすると言ったように。
母のことを優先せず、結婚というたった一人としか出来ないことを、自分としてくれる相手を大切にすると言えたらいい。
……言いたいとはもちろん思います。けれどそれを言うことが必ずしも良い結果をもたらすとは限らない、そんなことをサンドラ様に言うわけにもいきません。
「母上、只今戻りました。報告をしてもよろしいでしょうか」
彼女の部屋に入り、片膝をついて座っている母ノーマを見上げた。
ノーマの向かいには弟のリアムが座っており彼は横目でちらと兄を見て、それから目の前のお菓子の方へとすぐに視線を戻す。
「ええ、どうぞ?」
母は視線を寄越さずに、優雅に紅茶を飲みながらライネにそう言った。
「サンドラ様の姉君であるユスティーナ様の問題はきちんと解決をしたそうです。それから彼女は前回同様、僕の為を思い様々な助言をくださっています。僕の新しい相手について言及されることが多いです」
「……サンドラ様は本当になんでも手を出すのがお好きな方ね。はぁ、本当に困る。あなたをこうしてあんなによくできた令嬢の元に晒してわたくしは恥ずかしいです」
「はい」
「あなたはマルガリータのように、あなたをまっとうに侮蔑するような人間をそばに置かなければ、すぐに思いあがってしまう愚か者だというのに……お優しいのは悪いことではないけれど……」
そこまで言ってノーマはやっとライネの方へと視線を向ける。それから不機嫌に目を細めて眉間にしわを寄せながら続けた。
「こんな者と二人きりでお茶会を開くだなんて、外聞に興味がないのかしら。それとも……ああ、そういえば彼女は貴族らしからぬ悪趣味を持っているなんて話を聞きました」
「……」
「なんでも、小鳥に虫を食べさせて喜んでいたとか。珍しい昆虫に針を刺してじわじわといたぶるのが好きだとか」
ノーマはアントンの広めた失敗談を今更どこかから入手したのか、サンドラのことを知ったふうに言う。
しかし、ライネがそんな話を聞いたところで彼女の評価が変わるわけもない。
小鳥に虫をやっていたのは、小鳥が怪我していたからだし、昆虫に針を刺したのは観察の為に飼育していたものが寿命を迎え、惜しむために標本にしただけに過ぎないのだ。
本人から聞かなくとも、きちんと話を聞いていればそれらの話も彼女らしいと言える思いやり深いものばかりだ。
もちろんプライドも高く貴族らしい一面も持ち合わせているが、サンドラは基本的に何事にも真剣に向き合っている。
放置したり、見て見ぬふりをしたりしない。小鳥が苦しんでいたら助けようと手を伸ばすし、野鳥のことも、ライネのことも、姉のことも知ろうとして手を伸ばす。
そういうきちんとした子だ。誰かに笑われるようなことなどなにもしていない。
少なくともノーマよりもずっとずっと立派だとライネは思う。
「……」
「そうね。だからどこかおかしいのよ。わかる? だから、あなたなんかに構うのよ。あなたなんかと言葉とまっとうに言葉を交わすのよ。ああ、もしかして、変わった子だって言われたいだけなのかも」
「……」
「注目を集めて、話題になりたいのね。子供っぽくていじらしくじゃない。あなたは利用されているのだわ」
ノーマはペラペラと続けて、サンドラのことを勝手に想像して勝手に笑う。
いじらしいだなんて馬鹿にして、笑って。
つい先ほどまで接していた彼女の様子を思い出す。
蝶が二人の間を横切って、普通の貴族なら虫なんて気持ち悪いと顔をしかめるはずなのに、目で追って、小さく微笑んだ。
その幼虫が庭園の草花を虫食いにして育つとわかっていても、その方が自然なことなのだから別にいいだろうと彼女は言う。けれども貴族としての体裁を保つために、綺麗な庭園も必要だ。
だからこそ自分しか使わないガゼボの周りに殺虫剤を使わない花壇を作っている。
そういう人なのだ。彼女は多くのものをいつくしんでいるだけなのに、こんなふうに言われる筋合いなんかない。
「わかったら、さっさと自分から縁を切るように動きなさい」
「……」
「こうして何度も交流を持つことだって多めに見てあげているのだから、カルティア公爵家のわが領地への助力を維持させたまま、あなたはいつものようにその醜い顔を出来るだけ多くの人間に晒さないように生きていくのよ」
……そんなことはわかっています。
せめて、マルガリータと別れるきっかけをくれた彼女の願いを叶えて去るのが一番良い形だと理解しています。
それなのに、そうしたいと願うけれども、多くの障害があってどうにもならない。
彼女の望むように笑い話にすることは今の状況では難しい。
多くの人と関わってライネが嘘をつける様な人間だったらよかったが、あいにくやったこともないしサンドラをそんなふうに騙したくもない。
それに、叶えてしまったらもう彼女とも会うことも許されず、ライネはノーマに見張られてハーヴィーと隠れて少し会話をすることぐらいしか出来なくなる。
こんなことはもう二度と無い好機で今が楽しくて、酷く手放すのが惜しい。
「……」
それでもサンドラの願いを叶えたい。唯一、ライネの顔をまっすぐに見て、醜いとさげすまずに顔をあげることを許してくれた。
ライネに、新しい価値観をくれた彼女に報いたい。
そんな心の中の葛藤が、ノーマに対する返事を遅らせ、ライネは心を落ち着けるために少しうつむいて細く息を吐いた。
するとひゅっと風切り音がしてノーマの細い腕が鞭のようにしなりパンッと乾いた音が鳴る。
耳がカッと熱くなってワーンと耳鳴りがした。
「どうして反抗するのッ!! わたくしはこんなに心配しているのにッ!! 全部全部あなたの為を思ってこんなに言ってあげているのにッ!!」
胸ぐらをつかまれて引き寄せられ、耳元で怒鳴られる。頭の中に響くような声に、ライネの中には苦い後悔の味が広がる。
……返事が遅れたのが悪かったですね。
「申し訳、ありません。母上」
「今更ッ、謝ったってッ、遅いんですッ!!」
何度も手が振り下ろされる、彼女は力任せにライネを何度も殴るものだからその手にはいつだってたくさんの痣が出来ていた。
それでもこうするのは、醜く生まれてしまったライネをきちんと躾けるためで、ライネ自身の為で、それがノーマのいつもの言い訳だった。
けれどもそんな言葉は方便だ。
すべて、そこにいるリアムの為だと知っている。
悪意などないようなふりをして、善意を振りかざし行き場のない人間をいたぶる。
するとリアムは、やっとお菓子から視線をあげて、兄を叩き始めた母を止めるために椅子を飛び降りて「お母さま!」と叫びながら彼女にしがみついた。
しかししばらく母は、愛する息子リアムに止められても自分を制御することができない。
もちろんライネも、使用人たちもパーシヴィルタ辺境伯家の女主人である彼女に逆らうことが出来ずに止めることもできない。
それに、とライネは思う。
ライネに痣があったことで不幸になった母と同じように、関わったばかりに被る必要のなかった不幸を被るのならば最初から、関わらなければいい。
サンドラを、あんなに良い人を、こんな人に関わらせたくない。だから、彼女のあの言葉にイエスともノーとも答えられなかったのだ。
答えればきっとサンドラは突き詰めて知ろうとする。知らなくていいのだこんな現状など、見ないで欲しい。
そのために何が出来るのか、ライネはやっと思考を巡らせて痛みに耐えながらも考え始めたのだった。




