12 兆し
ライネは帰りの馬車で従者のハーヴィーと向かい合って座り、彼が大切に持っているリュートの入っているケースを見た。
あんなふうに他人に褒められたことなど、記憶にない。彼女が気を使って言ってくれたにしろなんにしろ、そう言ってくれるだけの価値をライネに見出してくれているということだろう。
それは酷く光栄なことでやはり罪悪感がぬぐえない。
……僕と交流があることによって同年代から差別されたりすることがないとは言い切れないでしょうから。
そう考えると気分が重たくなる。彼女は女性でそういう悪い噂がつくことを気にする年配の方々も多い。
特に信心深い人は、醜い外見のライネと関係を持つと悪い気が移っていつか授かる腹の中の子にまで影響するなんて言う人もいる。
なので交流を持つべきではないという両親の意見には賛成だ。
しかし、彼女だけは特別だろう。サンドラの華麗なる仕返しは同世代の間で話題の出来事だ。
きっとみんな何と無しに、彼女の過去の話だけは妙に広まっていると言うことを薄々認知していた。
だからこそ小さな嫌がらせをするみみっちい男の行動に納得し、取るに足らない笑い話だと笑って格の違いを見せつけた彼女の話は瞬く間に広がった。
彼女の姉たちがここぞとばかりにサンドラの心優しくとも気高い貴族女性らしい話を披露するのでさらに盛り上がっている。
……そんなサンドラ様なら僕と関係があると漏れたとしても、問題の後始末の為に目をかけてやっているそんなふうに周りからは移るのではないでしょうか。
それに、サンドラ様自身もお強い方の様ですし、大丈夫だと思います。
だから彼女は例外であり、親しくさせてもらっている。母から許されて女性と接するのはマルガリータ以来だった。許されているといっても深く関われば母は怒るだろうが。
ただ、それにしてもサンドラは不思議な人だ。額の痣に触れたりして、もし移ったらどうしようかとこちらが心配になってしまったぐらいだ。
でも慰めるように触れられて、何故だかこうして醜い自分が生きていることを少し許されたような心地になって嬉しかった。
関わるべきではないのに、あまりに優しいので関係を続けたいと思ってしまう。ライネがそう思ってしまうということは、別の人から見ても彼女はそう思うほど魅力的な女性なのだろう。
そんな人とこんな自分が、また会うことは恐ろしいような、嬉しいようなこんなふうに思う相手には今まで会ったことが無かった。
すると、向かいにいるハーヴィーと目が合い彼は、それをきっかけに笑みを浮かべて話しかけてきた。
「ライネ様はサンドラ様に気に入られている様ですね。社交界に出ておらず、今はほかの男性と交流があるとは聞きません。これはチャンスではありませんか?」
彼は目を輝かせて言った。先日謝罪に来た時以来、こういう様子なのだ。
もちろん、サンドラのようなしっかりとした血筋の器量の良い女性を娶れば、少しは立ち回りやすくなるかもしれないが、それを母が許すとは思えない。
「母から不満が出ると思いますよ。それにそんなふうに捉えるのは目をかけてくださっているサンドラ様に失礼です」
「不満と言いましても、もうライネ様も独り立ちできる年齢ですし、仕事もこなしているではありませんか」
「……年を重ねて大人になったつもりでも結婚は一人でするものではありませんから、よく思わない人が一人いるだけで難しくなると自分は考えます」
ハーヴィーの言葉に、出来るだけ現実的に考えて答えた。
この歳になっても両親の顔色を窺い、自身では決断せずに、自分の人脈も広げない。それは幼い行動に見えるかもしれないが、誰にも被害を広めずにすむ方法でもある。
誰かにライネが手を貸してほしいと頼むことによって、不幸になる可能性があるのなら別にこのままでも構わない。
それにこんなに醜い人間も生きていれば稀に優しくしてもらえる時がある、そういうことが知れるというだけで満足だ。
「……たしかに苦労はするかもしれません。でもそれは、ライネ様の立場の向上につながりませんか?」
「……」
間違ってはいないがやろうという気はない。ずっとそのスタンスを変えるつもりはないのだ。それはわかっているだろうとハーヴィーに視線を向けると「失礼しました。今のは意味のない質問でした」と訂正する。
昔から面倒を見てくれる兄のような存在の彼には、こんな情けのない主で申し訳がないとは思う。それでも自分のせいで誰かが迷惑をこうむるのなら何もするべきではないだろう。
そう思いたい。
マルガリータの行動や、痣の件だけでなく、ついて回っている噂にも傷ついてないと言ったら嘘になる。
あれでも出来る限りの配慮をして、マルガリータに精一杯を尽くしていたつもりだった。けれども迎えた結末は、結局別れで、ライネよりも年下のサンドラにも始末をつけてもらったような形になった。
彼女は強く、賢く、素晴らしい女性だ。そんな彼女と比べて自分はのろまで愚鈍で醜く、頭を下げるしか能がない。
……本当に……情けない……。
そう考えてから、彼女の自分を低く見積もりすぎだと言う言葉を思い出す。あの目は真剣だった。
「それでも、あの方はライネ様のことをきちんと見ています。とても真剣に。だからこそライネ様も周りの者にとらわれず、ただ彼女と向き合ってみてはどうでしょうか」
「向き合ったところで……」
自分みたいな人間には、意味などない。そう口にしようとした。
凡庸で、優れた部分もない醜い人間が等身大で向き合ったって意味などない。
けれども、彼女とともに過ごしている間、いつだって価値を決めるのは彼女だ。サンドラはよく見かける青い鳥でも、自分の中で真価を見極めて好んで眺める。
サンドラに教えられてライネも野鳥の美しさを知った。それなのに勝手にライネが判断を下して決めつけたら彼女に怒られてしまうかもしれない。
「そう、ですね。……精一杯向き合うだけなら、出来るかもしれません」
ライネがそう言うとハーヴィーは「頑張ってください」と少し元気よく言った。
あまり人に会わないライネと、それについて回るハーヴィーはここ最近ずっと鬱屈とした雰囲気で過ごしていたが彼の笑みに、これだけでもそう言った価値があると思ったのだった。




