行方不明のラッコ
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
そのマフラー、似合うね。
この一言が言えずに、なんだか流されるままに、いつの間にか三年が経っていた。こまかいことを言うと三年も経っていなくて、約三年と言ったほうがいいのかもしれない。それでも、二年と数ヶ月。月日が経ったいまでも、「そのマフラー、似合うね」の一言が、のどの奥で引っかかったままだ。赤と青と黄のタータンチェックのマフラーは、きっと静間くんにしか似合わない。
そうこうしている間に、静間くんは一年早く高校を卒業してしまい、俺は未だに学生服を着ている。どうしても一年遅れになってしまうのは仕方がないとはわかっていても、なんだか納得いかない。静間くんとはいまでもしょっちゅう会ってはいるのだけど、それでも、もう二度と静間くんの学生服姿を見られないんだなあと思うと少しだけ寂しい気がする。学生服を着た静間くんは、とてもかっこよかったのだ。学生服を着た静間くんと、放課後になると学校の近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら、よく、ぼうっと過ごした。思いつくままにおしゃべりしたり、本を読んだり、それはいまもあまり変わらないのだけど、ただ、静間くんが学生服ではなくなってしまった。それが、少し寂しい。
静間くんは、高校を卒業した後は、進学もせず定職にも就かず、アルバイトをしながらのんびりと過ごしている。兄姉が優秀すぎて、ご両親は静間くんのことについては特になにも言わないのだそうだ。
現在、静間くんは赤いエプロンを着けてスーパーのレジでバイトをしている。俺は働く静間くんに会いたくて、週に何度もそのスーパーで小さな買いものをした。静間くんはレジにいる時といない時があるので、いればラッキーという感じだ。静間くんは、俺がレジに行くと、「流くん」と、確認するみたいに一言だけ名前を呼んでくれて、無表情にバーコードを読み取ってくれた。俺はまるでアイドルに課金するみたいに、静馬くんのレジに通っていた。
クリスマスイブには、学校の近くのいつもの喫茶店で静間くんと話をした。いつもと変わらない他愛のない話だった。お互い、この日がクリスマスイブだということには全く触れず、ただ同じ空間にいて、同じ時間を過ごした。クリスマスとかそういう行事は関係なく、俺にとっては、静間くんと過ごす時間はいつも特別だった。その日も、静間くんのマフラーが、相変わらず奇抜なタータンチェックだったことに俺は安堵を覚えていた。
静間くんは、ぱっくりとでかい目で無表情に俺を見る。静間くんの顔立ちは美しいので、そんなふうにしているとまるで人形のようだと思う。
「流くんは、前髪が短いほうが似合ってた気がするなあ」
なにをそんなに見ているのかと思っていたら、前髪を見られていたらしい。言われたその日の夜、俺は伸ばして分けていた前髪を自分で短く切った。
静間くんの、瞬きの極端に少ないカッと見開いたような大きな目や、滅多に動かない表情筋は、その美しい顔立ちと相まって、知らない人が見ると少し危ない人のように感じるのかもしれない。静間くんが街を歩くと、少しだけ人が避けてくれる。静間くんは、人ごみでも人にぶつからない。それが、いつもちょっと羨ましかった。俺は、よく人にぶつかってその度に謝りながら、静間くんの後を追いかけていた。静間くんは時々振り返って、俺が後ろにいるかどうかを確認した。振り返って俺の姿を探す静間くんの視線が泳ぐ時、俺はどうしようもなくうれしくなった。
人形みたいに感情が失われているかのように見える静間くんのその顔は、しかし、決して感情がないわけではないと、俺は知っている。静間くんの好きだったバンドが解散した時なんて、静間くんは、えー、そんな泣く? と俺が引いてしまうくらいぐずっていたし、好きな作家が亡くなった時も同じだった。もしかしたら、静間くんの感情は、俺を含めた他の人よりも、実は振り幅が大きいのかもしれない。普段の無表情さで隠れているだけで。
「行方不明になりたい」
まだ静間くんが高校三年生で、だけど卒業式が近付いていたころ、いつもの喫茶店で静間くんはよくそんなことを言っていた。
「どういうこと?」
不穏な言葉に思わず尋ねると、
「どっか、遠いところへ行きたい」
静間くんはのんびりと言った。だったら、最初からそう言えばいいのに。行方不明なんて物騒な言葉、びっくりしてしまうじゃないか。
その後も、静間くんは度々、行方不明になりたがった。俺はその言葉を、頭の中で「遠くへ行きたい」に変換して聞いていた。きっと卒業間近なので、感傷的になっているのだろうと、そう思っていたのだ。静間くんが本当に行方不明になるなんて、その時は思ってもいなかった。
そういえば、二月に入ってから静間くんに会わない。いつもいるはずの喫茶店にもいない。静間くんがバイトしているスーパーにもいない。俺は買いものを装って、レジの女性に静間くんのことを尋ねてみた。怪しまれないように、静間くんの友人だということを強調する。俺が学生服を着た人畜無害そうな子どもだったから油断したのか、女性はあっさりと答えてくれた。
「あの子、辞めっちゃったのよ。一月いっぱいで」
そうなって初めて、「行方不明になりたい」という静間くんの言葉を思い出したのだ。なんだか胸騒ぎがして、俺は静間くんの家に電話をかけた。静間くんはスマートフォンなど、携帯電話的なものを持っていないので、こういう時はとても不便だ。
「旅行へ行ってるんじゃないかしら」
静間くんのお母さんは言った。
「どこへ行ってるんですか?」
「ごめんなさい。聞いてないの」
「いつごろ帰ってきますか?」
「さあ」
話にならない。俺は、礼を言って受話器を置く。
静間くんが、どこにもいない。まるで、本当に行方不明になったみたいだ。そう思った途端、血の気が引いた。まさかとは思うが、本当にいなくなってしまったのだろうか。最後に会った時の、静間くんを思い出す。
一月一日の朝だった。今年が始まる、最初の日。珍しく静間くんから俺のスマートフォンに電話があり、初詣にいっしょに行ったのだ。
「これ、すごいね」
公衆電話からかけてきた静間くんは言った。
「流くんがどこにいても、連絡が取れるんだ」
なにをいまさら、と俺は思う。携帯電話というのは、そういうものだ。
学校前で待ち合わせをし、俺たちは地元の神社へ向かった。人で賑わう神社で、俺は必死に静間くんの奇抜なマフラーと、まるいコンパクトな後ろ頭を追いかけた。
静間くんの髪の毛には癖がない。つるんと流れるようにやわらかく、静間くんの形のいい頭を覆っている。いつもは人にぶつからない静間くんだが、この日の神社では、さすがにそうもいかないようだった。静間くんは振り返り、俺がいることを確認すると、無言で俺のほうに手を差し出してきた。手袋をしていない静間くんの手は、寒さで縮こまってしまったみたいにかさかさしわしわしていた。俺がぼけっとしていると、「手。はぐれちゃいけないから」と静間くんは無表情に言った。
「あ、うん」
俺は頷いて、静間くんの手をそっと握った。俺は手袋をしていたので、静間くんの手の温度はわからなかったけれど、きっと冷たいのだろう、と想像した。
「水族館のラッコは、手を繋いで眠るんだって。はぐれちゃいけないから」
歩きながら、静間くんは言った。
「本当に? 野生のラッコは?」
「昆布を身体に巻いて眠る。はぐれちゃいけないから」
「うそだ」
「本当」
たぶん、それが最後だ。静間くんと交わした最後の言葉だ。それから、お参りを済ませて別れるまで、言葉は交わさなかった。別れ際、静間くんは俺の頭を雑な感じにわしゃわしゃと撫でた。どういう意味があったのかはわからない。俺は、静間くんの奇抜なマフラーを見ていた。はぐれちゃいけないから、なんて言っていたくせに、静間くんはあっさりと俺からはぐれてしまった。
静間くんと初めて会ったのは、高校の入学式の日だった。
俺たちの高校には、入学式の直前に二年生が新入生の制服の胸にコサージュをつけるという少々恥ずかしいイベントが存在している。一年生の教室の前の廊下で、俺の真新しい制服の胸にコサージュをつけてくれたのが、当時、高校二年生になったばかりの静間くんだった。
静間くんは、コサージュの左右のバランスに納得がいかないらしく、何度もやりなおした。瞬きの少ない大きな目をぱっくりと剥いて、真剣な表情で静間くんはコサージュと格闘していた。こういう時に気の利いた言葉を持たないごく普通の高校生の俺が、しかも、まだ入学式にも出ていないような高校生初心者の俺が、このおかしな先輩に言えることなんてなにひとつあるはずもなく、黙ってされるがままになっていた。
やっと満足のいくバランスになったコサージュを見て、静間くんはにっこりと無邪気に微笑んだ。きれいだな、と思った。静間くんの笑顔を見たのは、後にも先にもこれっきりだ。
「よく、じっとしていてくれました」
静間くんは言って、俺の頭を雑に撫でた。子ども扱いされたようで恥ずかしかったが、なんとなく、この人形のような先輩にはなにを言っても無駄のような気がした。だから、俺は、「きれいに付けてくれてありがとうございます」と返事をした。静間くんは、美しくも無表情に俺を見ていた。
校内で、静間くんは目立っていた。静間くんの顔立ちが美しいからというのもあったけど、それ以上に目立っていたのは静間くんの奇抜なマフラーだった。遠目で見ても静間くんだとわかるくらいに、はっきりとした色合いのそれを首に巻いて、静間くんは大股で、しかし足音を全くさせずにすいすいと歩く。くっきりとした色のマフラーは、静間くんによく似合っていた。きっと、みんながそう思っていたんじゃないかと思う。だけど、静間くんに直接そう言う人はいなかった。静間くんは、いつもひとりだった。
ある日の放課後、俺は、大股ですいすいと歩く静間くんの後を小走りで追いかけた。桜がもう散り始めていて、だけど、やたらに寒い日だった。そのマフラー、似合いますね。そう言おうと思っていた。やっと追いついて、
「先輩」
そう呼ぶと、「静間だよ」と返事があった。
「静間先輩」
静間くんは立ち止まり、無言で俺を見て、「なんかちがうな」と言った。
「なにがですか?」
「先輩は、いらない」
「静間さん」
言い直したけれど、静間くんは無表情に沈黙している。
「静間くん」
「それかな」
言って、静間くんは再び歩き出した。静間くんは大股をやめて俺に歩調を合わせてくれていた。なんだか無性にうれしくなって、「静間くん」と無意味に呼んだ。
「は、あ、い」
そう返事をした静間くんは無表情だった。マフラーのことは言いそびれてしまった。それ以来、俺は勝手に静間くんに付きまとっていた。
あの日みたいな気候を「花冷え」というのだと、あとから静間くんに聞いた。あの日のことを、静間くんはたぶんずっと覚えていてくれたし、俺も忘れたことはなかった。あの日、静間くんに声をかけて本当によかった。図らずも静間くんと仲良くなれたことは、俺の一生の宝物になった。
三月。静馬くんが行方不明になってから、半月が経った。俺が高校を卒業する日になって、静間くんがひょっこり姿を現した。
卒業式も終わり、同級生や下級生との別れを惜しみ、それぞれが帰るころになって、俺は校門のところに静間くんを見つけた。奇抜なマフラーのおかげで、すぐにわかった。他の卒業生たちもそうだったらしく、あ、静間先輩だ、という声が周囲から細々と聞こえ始めた。
「静間くん、どこに行ってたの?」
駆け寄って尋ねた俺に、
「アラスカ」
静間くんはあっさりとした口調で答えた。
「え」
呆気に取られて、次の言葉が出てこない。
「とー、あと、N水族館。I県の」
「なんで」
わけがわからず聞き返す。
「ラッコの写真を撮ってきた」
「なんで」
やっぱり訳がわからず、「なんで」しか出てこない。
「流くんが、うそだって言ったから」
静間くんは無表情に言った。
「なにを?」
「ラッコの昆布のこと」
静間くんはコートのポケットからデジカメを出して俺に手渡す。
「でも、昆布を身体に巻いてるラッコは撮れなかった。残念」
俺はデジカメを操作して、写真を見る。アラスカの寒そうな景色と、ラッコの写真がたくさんあった。七割がたピンボケだったが、きれいに撮れている写真もちゃんとある。
「かわいい」
写真に写ったラッコを見て、思わず唸ってしまった。動物は結構好きなのだ。
「うん」
静間くんは無表情に、だけど少しうれしそうに頷いた。
「この個体は、流くんに似てるよね」
静間くんはデジカメを操作して、俺に写真を見せる。
「似てるかな」
全然ピンとこない。そもそも生まれてこのかた、ラッコに似ていると言われたこともないので、なんだか変な気分になる。
「似てる」
静間くんは言う。
「かわいいでしょ」
そう言われ、なんだか恥ずかしくなった。かわいいのは俺ではなくラッコだ。それなのに、俺が照れてどうする。
「そのマフラー、似合うね」
俺は、照れ隠しにそう言った。約三年越しの言葉だったのだけど、静間くんの反応はあっさりとしたもので、
「あ、これ好き? じゃあ、あげる。卒業祝い」
マフラーを外し、それを俺のほうに差し出して言う。
「静間くんにしか似合わないのに、俺がもらっても意味ないよ」
そのマフラーは、静間くんの首に巻かれていないと意味がない。
「そう?」
静間くんは無表情に言って、手に持ったマフラーを見た。
「そうかな」
言って、静間くんはまた自分の首にマフラーを巻いた。
静間くんのマフラーはラッコの昆布みたいだ、と、ふと思う。それさえ巻いていれば、静間くんはそこにいる。俺は静間くんと手を繋ぎ、はぐれないように人の波に揺られるのだ。ラッコの写真を見ながら、そんな想像をしてみる。
そんなことは知らない静間くんは、俺の胸元に手を伸ばすと、真剣な顔でコサージュを直した。納得いく出来になったようで、静間くんは無邪気な笑顔を見せる。きれだな、と初めて会った入学式の日のように、俺は静間くんに見惚れてしまう。
「今度、行方不明になる時はさ」
俺は言う。
「俺もいっしょに連れてってよ」
「うん」
静間くんは頷いて言った。
「じゃあ、今度は、ふたりで行方不明になろうか」
いっしょに、手を繋いでいつか行方不明になる予定の俺たち。きっと世界中のラッコの中で、いちばん幸せなんじゃないだろうか。俺は静間くんのマフラーを見ながら、そう思った。
了
ありがとうございました。