時姫の夢
《時姫》……の話を聞いて、玖夜は目を伏せる。
少し秋の気配を含んだ風がふわりと吹いて、玖夜の銀色の髪の毛を優しく撫でた。
左肩に束ねた絹糸のような髪が、柔らかい陽の光に照らされて、眩しい程に輝いた。けれど玖夜の表情は、重く暗く沈んでいる。
「……」
そんな玖夜を見て、フィーリシュカは眉を寄せる。
玖夜の考えていることは、聞かなくても分かる。過去に戻れば、やり直せるとでも思っているのに違いない。
思っていることが、すぐに顔に出るこの幼なじみが、フィーリシュカには愛しくもあり、時に苛立ちの原因にもなっていた。
フィーリシュカは少し不機嫌になって口を開く。
「……それでは、姫のご家族の方々は、ご心配された事でしょう……」
それは玖夜に対して、投げ掛けた言葉でもある。
いなくなった者を心配するのはいいが、全く周りが見えていない。
(玖夜さまが、もしも過去に行けるとして、行っている間、私やリルラはどうすればいいというの?)
フィーリシュカは思う。
たとえ過去に行かなかったとしても、いつの日にか玖夜が 《二人を探す……!》などと言って、いなくなるのではないだろうかと、フィーリシュカは密かに危惧している。
しかし当の本人は、そんな心配をされているなどとは、少しも思っていないに違いない。ただただ、いなくなったダリスとラースの事ばかりを考え、目の前の友人の事など、頭の隅にすら引っかかっていない。
そう思うと、フィーリシュカは歯痒くて仕方がない。こんなにも玖夜の事を心配している者が傍にいるのに、彼女はお構いなしなのである。
傷心の玖夜を哀れに思う気持ちがフィーリシュカにはあるが、辛いのは、なにも玖夜だけではないのだ。
消えゆくダリスを救えなかった自分や、兄を失ったリルラも当然、深い傷を負っている。
力及ばず、歯痒い思いをしているのは、皆同じだ。
けれどそんな事はまるでなかったかのように、自分だけで傷つき、探しに行こう……! などと考えるのは、断じて許すわけにはいかない。
(行くなら行くと一言断るべきですわ……! そしたら私は、必ず玖夜さまについて行きますもの!)
フィーリシュカの決心は固い。
けれどその事に、玖夜は果たして気づいているのだろうか……? まさか、ふらりといなくなるのではないか……。それがフィーリシュカには恐ろしくてならない。
不安なのか、寂しさなのか、それとも苛立ちなのか……それら複雑なその感情を、フィーリシュカは完全に消し去ることが出来なかった。……フィーリシュカもまた、思っていることが顔に出ている。
リルラはそんなフィーリシュカに、少し驚いたように目を見開いて見ていたが、直ぐにふっと笑って答えた。
「あ、あぁ。そうよね。誰でも黙っていなくなるなんて、そんな悲しいことありませんものね、ねぇ? 玖夜?」
話を振られ、玖夜はキョトンとして頷く。
「え? う、……うん」
そんな玖夜を悪戯っぽく見て、リルラは続ける。
「ふふ。でも、このお話はちょっと違うの。そうか……そうよね。玖夜もフィーも、エルダナの国外から来たのだったわね。……この話は、エルダナでは有名な話なのよ。……確かに黙っていなくなるのだったら、姫の家族も心配したのだろうけれど、実際時姫さまの家族は、心配などしなかったの」
その言葉に、玖夜が食いつく。
「え!? なんで!? 王女さまなんだろ? 国の姫さまなんだろ? 王や王妃は? 侍従たちは? 何故心配しないの!?」
物凄い剣幕に、リルラは後ずさる。
「あ、えぇっとね、まぁ、心配はしていると思うのよ? でも心配の仕方が違うのよ」
「心配の仕方?」
フィーリシュカが眉を寄せる。
「うーん。あのね、本当に不思議なんだけどね、姫の体はちゃんと王城にあるのよ」
「王城にある? ……何言ってるの? 意味が分かんない!」
玖夜が呻く。
リルラは苦笑いをして、話を続ける。
「姫はね、一歩も城の外へは出ていないの。……体が弱くってね、ずっと寝たきり。エルダナの過去は、姫の《夢》なのよ」
「「!?」」
玖夜とフィーリシュカは、目を丸くする。
「本当に夢……なんかではないわよ? だって現にこうして、あなたたちはここにいるわけで、実際姫が現実世界で調べた歴史は、姫が体験した《夢》そのものだったのだから……」
「う、……うん」
言いながら玖夜の心は複雑だ。
「姫は、そのほとんどを時空の狭間で過ごしている。長い時間をひとつの所で過ごすこともあれば、瞬時にいなくなる事もあるの……」
言ってリルラは悲しそうな目を向ける。
「だから姫は、多くの別れを経験している。……実際ね、姫はいくつかの場所で、その人生を全うした事があるのよ。ある時代のある場所で、赤ん坊として生まれ、老いて死んだの」
「え? 時姫さまが別のところで生まれた??? 老いて死んだ???」
玖夜は混乱する。
元々いた場所で生まれたのにも関わらず、時空を超え再び生まれる???
有り得もしない事なのに、リルラは笑って頷いた。
「そうよ。だって、《夢》なのですもの。何でもありでしょ? 夢ってそんなもの。それに姫にとってその夢は過去の事。いくら人生を繰り返したところで、姫の実体はまだ産まれてもいない。……実際本当に姫がいる場所では、そんなに時間などたっていなくって、時々目が覚めて、姫は困惑する……。だって、そうでしょ? 自分はひとつの人生を送ったはず。けれど目覚めれば、まだ小さな女の子なの……」
悲しそうに答えた。姫の人生を想像するだけで、虚しくなる。
苦労して培ったモノは、現実のものではない。夢の世界。なんの為にもならないし、何も残らない。
けれどそれは紛れもなく人一人の人生で、歴史にすら残らないちっぽけな存在ではあるものの、確かに過去に息づいた、ひとつの小さな人生なのである。
フィーリシュカは思わず声を上げる。
「で、でも、確かにその時代で生きていたのでしょう? 人一人の人生を生き抜くなど、相当な知識が備わるのではなくて?」
確かにその通りだ。
人が一生かけて獲得する知識を、その姫は一眠りするだけで手に入る。
しかしリルラは首を振る。
「知識などほとんど寝たきりの姫に、果たして必要なのかしら?」
「あ……」
リルラは笑う。
「いらないでしょ? だから姫の知識は無駄になる」
だけどね……と、リルラは続けた。
「ある時の国王が、リルラリールの存在に気がついて、この図書館を建てたの」
「図書館……?」
リルラは頷く。
「図書館は知識の宝庫。リルラリールの知識を保存するために、建てられた。……それがこの王立図書館」
言ってリルラは立ち止まる。
目の前には大きな図書館がそびえ立っている。
六角形のその建物は、まるで天を支える柱のように、ただ一つだけそびえ立つ。
「……」
ふわりと三人の足元を風が、吹きすさぶ。
カサ……と木の葉が音を立てた。
三人は静かに押し黙って、図書館の敷地内中へと、入って行く。
図書館の敷地内にはコブシの木が植えられ、時折カサカサと音を立て、木の葉が舞った。もうすぐ秋が来て冬になると、この木の葉も全て枯れ落ちる。
そうなる頃にはこの辺りは、少し物悲しくなるだろう。
けれど玖夜は知っている。
玖夜はダリスとラースがいなくなったその後で、その事を知った。
きっかけは簡単だ。玖夜とセウの住むログハウスが、この近くにあるからだ。
夜、一人寂しくなって、玖夜はこっそり外へ出たことがある。
青い月の光が降り注ぐ、凍りつくような寒い冬の事だった。
薄ら積もった雪が、粉砂糖のように辺りに優しく降り注ぎ、誰もいない夜の道は悲しくなるほど綺麗だった。
玖夜は白い息を吐きながら、図書館までの道を歩いた。
普段なら、近づくこともしない。
けれど何故か人恋しくて、思い出の図書館がふと、見たくなった。
そこで玖夜は見た。
枝ばかりのコブシの木の上で踊る、フィルリアル。
小さな可愛らしいその妖精は、クルクルくるくる、楽しげに踊っていた。葉のない寂しいその木を元気づけるかのように、淡く光り優しくその場を照らし出す。
月夜に光るその光景がとても綺麗で、ずっと見ていたくなるくらいだった。
実際、ずっと見ていて、普段病気をしないハズの玖夜は、熱を出して翌日から寝込んでしまった。とんだ笑い話である。
けれどあのフィルリアルのおかげで、玖夜は元気づけられた。また、見てみたい。もうすぐあのフィルリアルが踊っていた季節が、また巡って来る。
(……いつか、みんなで見れたらいいな)
玖夜はそう思う。
──いつかきっと、みんなで見る……!
そう心に決めて、玖夜は図書館へと一歩、歩を進めた。