行きたくない場所
キュイ キュイ──
夏から秋になろうとしている、空がよく澄み渡った午後。
どこからか、透き通った鳥のさえずりが聞こえた。
キュイ キュイ キュイ──
それは本当なら冬に鳴く鳥の声のような気がして、玖夜は顔を上げる。
けれど鳴く鳥の姿が見えるわけでもなく、玖夜はそのままその声に耳を傾けた。
季節が変わる時期になると、いつもとは違う何かが起こりそうな予感に、少し心が弾んでいた。
けれど今回は、心がぽっかり空いているような、そんな物足りなさが、玖夜を包み込む。
二人がいなくなるだけで、こんなにも辛いものだとは、思いもよらなかった。
以前、紫竜である時臣に命を狙われた時も、確かに心が傷つきはしたが、今回ほどではなかったように思う。
あの時は、生きることに必死で、悲しみに浸る暇がなかったのかも知れない。
けれど今回は、ひどく心が痛い。
「はぁ……」
玖夜は溜め息をつく。
エルダナへ戻ってから、玖夜はよく溜め息をつくようになった。
そんな玖夜を見て、フィーリシュカもリルラも、どうにか元気づけようと頑張ってはみたが、なかなか上手くいかない。
にこやかに笑ったからといって喜んでも、また、ふとした事で表情がくもる。
短い間だったにも関わらずダリスとラースの存在は、玖夜にとって、大きいものだったのに違いない。
しかしフィーリシュカとリルラはめげない。
小さな前進でも、前に進めたことには変わりないのだ。玖夜が心の底から笑える日を待ち望みながら、これからもずっと支えあって行こうと、二人は誓い合った。
玖夜が必要以上に落ち込むのには、理由がある。
目の前でいなくなったラースを引き止めなかったことが、ひどく玖夜を悩ませているのだ。
(何故あの時、必死になってラースを止めなかったのだろう……)
その事ばかりが頭を離れず、どうしても悔やまれてならない。
確かに、体を動かすことが出来る状況ではなかった。
けれど、必死に懇願すれば、ラースの気持ちも変わったかも知れない。止められなくとも、這ってでも、ついて行くことは出来たかも知れない……。そんな風にも思った。
実のところあの時ラースは、ほんの少しだけ時臣の作った《停止の魔法陣》を起動させていた。だから玖夜がどんなに頑張ったところで、引き止めることなど出来なかったのだ。
けれどそんな事は、玖夜は知らない。
知らないから、あの日あの時ラースをとどめる事が出来なかった自分がとても歯痒く、愚かであったと悔いていた。
キュイ キュイ──
再び小鳥がさえずった。
ツグミ……だろうか? もう、遠くの北の国から飛来して来たのだろうか?
今年は夏がそれほど暑くなくて、渡り鳥たちはもしかして勘違いをして飛んできたのかも知れない。
少しおっちょこちょいな小鳥たちに、玖夜は少し自嘲気味に笑う。まるで、取り残された自分のようだと思った。
しかし今、玖夜は一人ではない。
(……そんな事、分かってる)
傍にいてくれる友だちが、二人もいるというのに、何故だか心がひどく寒くて、玖夜は静かに自分を掻き抱いた。
玖夜は今、歴史の教科書を持って、リルラとフィーリシュカと共に、王立図書館へと向かっている。
以前来た時は、まだエルダナの国民ですらなくて、誰もいない時間を狙って、こっそり忍び込んでいた。
……忍び込んでいた、と言うのは少し語弊があるかも知れない。
そこはちゃんと、当時義父であったセウの許可は得ていたし、図書館への魔力供給もしていた。歴史的な文化財を保護するため貢献しろ……と半ば強引に利用を促されたのも、また事実だ。
(懐かしいな……)
と、玖夜は思う。
王立図書館は、ラースと初めて出会った場所でもある。
「……」
二人の事をいやでも思い出してしまう。
だからこの王立図書館には、出来るだけ来たくはなかった。玖夜の顔色は悪い。
(でも、ここには面白い魔法陣の本があるんだ……)
玖夜は苦笑いをする。
行きたくない……と思うのも事実だが、本が読めるのは嬉しい。
嫌なことを思い出してしまうからと、自然図書館から足が遠のいていたために、随分本を読んでいなかった。
それにこの図書館には、珍しい本がある。
玖夜の生まれ故郷である猩緋国では、見ることの出来なかった《魔法陣の本》。
そもそも魔法陣は、竜人が編み出したものなのではあるが、実際竜人は使わない。
陣を描くことで、魔法をその場により定着させ実行する。魔力量の少ない者にとっては、有難い代物なのかも知れないが、魔力量の多い竜人には本来必要のないもの。
けれど物体や運動力の魔力の流れが見える竜人にしか、作り出せない魔法陣。
魔法陣に描かれるその独特な文言は、竜人にしか解読できなし、描き記せない。魔法陣として作り上げるには、力の流れを読む竜人の眼が必要なのである。
そんな不思議な状況下で生み出された魔法陣は、不思議な存在だと玖夜は思う。
大き過ぎる力を持った玖夜にとって、この魔法陣は必要不可欠なものであって、自分を制御してくれる唯一のものでもあった。
その魔法陣を使って、ダリスとラースに貢献したあの日のことを玖夜は思い出し、静かに微笑む。
まだ一年も満たない出来事なのに、とても昔のことのように思えて、ひどく懐かしかった。
「……」
けれど二人はここにはいない。
玖夜はその事実に、顔を歪める。
ラースと初めて出会ったこの図書館は、今の玖夜にとって、行きたくない場所の一つでもあった。
今は失ってしまった、ラースとの楽しかった思い出のはじまりの場所。ダリスと知り合うきっかけとなった、魔法陣の本。
この図書館での思入れは、一際大きいものだった。
──思い出すから、行きたくない……。
フィーリシュカやリルラがどんなに誘っても、玖夜は行こうとしなかった。《思い出すからヤダ!》いつも、そう言って断った。
けれど今回はそうも言っていられない。
学校から歴史の課題が出たのである。
『エルダナの歴史を紐解き、自分の魔力を見つめ直そう!』
(……なに、それ。)
玖夜は唸る。
いや、玖夜のみならず、フィーリシュカもリルラも唸った。
(((意味が分かんない……!)))
課題を与えられてすぐ、学生たちは異議を唱える事もなく、押し黙った。講師が何を意図しているのか全く分からず、声が出なかったのだ。
いや、声が出なかったと言うよりもむしろ、《はいはい課題ですね。分かりました》くらいの軽い受け取り方しかしていなかった。その根底に潜む狙いが読み取れなかったから。
おそらく講師……まさかの王近衛騎士兼文官のデュランは、それを見越していたのだろう。
課題を伝えると共に、講義の時間は終わり、デュランはニヤリとほくそ笑む。学生たちは意味が分からないまま、歴史の授業は終わった。
歴史を調べるためには、魔力を吸うと言われる図書館に行かなくてはならないのではないか……?
学生たちが、そうぼんやりと気づいた時にはもう遅い。今頃になって、事の重大さに気づき、みな軽いパニックを起こした。
──なんて危険な課題を寄越すんだ……!
《他の図書館を利用してはどうか?》との意見も出たが、あいにく学院内には図書館がない。学生の本分である勉学には必要だろ!? と思われるかも知れないが、本当にないのである。
しかも王都内にある図書館は、一つだけ。この王立図書館たった一つのなのだ。他校には当然図書館があるが、まさか他校に忍び込む訳にもいかず、みんなは頭を抱えた。
普通、学校という名のつくところであれば、図書館があって然るべきなのだが、こと王立アムリル魔法学院に至っては、そんな常識が通用しない。
そもそも学院の初めの成り立ちが、あの学園ではなく、この王立図書館なのである。
言うなれば、この図書館が学院であり、玖夜たちの通っている学院こそが付属機関なのである。
王立アムリル魔法学院……とは言っても、魔法ばかりを教える学校ではない。
魔法の他に、国語、数学、理科社会、外国語に薬学、魔法学など、様々な事を学ぶ。
およそ二百年前に創立されたこの学院は、エルダナ国内にある学校の中でも、最も古い歴史を誇る。
事の始まりは、当時《時姫》と呼ばれた王女リルラリールに起因する。
王女リルラリールは類稀な能力の持ち主で、一つの場所に留まることが出来なかった。
「え? それって、どういうこと?」
初めてその話をリルラから聞いた時、玖夜は驚いて思わず唸ってしまった。
リルラは苦笑する。
「うーん。要はね、姫は《時姫》なのよ。時を遡ることが出来るの」
リルラは説明する。
「《時を遡る》……?」
頷いて、リルラは続ける。
「時間の波を飛び越えて、違う時代へ飛んで行ってしまう。それが姫の力」
言ってリルラは窓の外を見る。
「姫はね、《そこへ行きたい》って思って行くわけじゃないの。望んでいないのに、過去へ飛ばされてしまうの……」
ポツリと呟く。
「過去に行く……」
過去に行ける……。
その言葉に、玖夜は胸が高なった。
過去へ行けたらどんなにいいだろう? 全てのやり直しが出来るのではないだろうか? いなくなろうとするラースを止めることが出来る。
いやその前に、自分の命を狙った兄さまが、自分を襲わないようにする事も可能なのではないか……そんな風に思った。
過去に行ける事実が羨ましく、玖夜は歯噛みする。
(自分には、そんなこと出来ない……)
出来れば、今すぐにも飛んで行きたい。
行かないでって言えば、ちゃんと諭すことが出来さえすれば、ラースは今もまだ、ここにいてくれたかも知れない。玖夜はそんな事を考える。
けれどそれは、夢物語だ。そんな事は出来ない。
現に、時姫と呼ばれた王女ですら、自分の行きたい場所には行けないのだ。例え玖夜にそのような力があったとしても、そんな大層な力のコントロールなど出来るはずもない。今持っている魔力すら、コントロール出来ないのだから……。
(魔力はたっぷりあるのに……)
竜人として……白竜として、魔力量は他に類を見ないほど玖夜の力は大きい。
けれど肝心の《過去に遡れる力》は、持ち合わせてはいない。
「はぁ……」
再び玖夜は溜め息をつく。
済んでしまった事をいつまでも引き摺り、後悔している自分が、とても嫌だった。玖夜は、悲しげに目を細める。
(……情けない)
自分の無力さが、虚しかった。