銀の櫛
チュン……チュチュン……。
夜が明けた。
いつもと変わらない夜明け。
玖夜はぼんやりとベッドから身を起こす。
「ん……玖夜。起きたの……?」
ベッドが軋み、隣に寝ていた人物が気だるそうにその金の巻き毛を掻き上げた。
玖夜はギョッとなって、叫ぶ。
「え? リルラ? なんで、なんでリルラがここにいるの!?」
リルラはそんな玖夜に動ぜずに、うーんと伸びをすると小さく欠伸をする。
「ふあぁぁあ、おはよう。……んもう。玖夜ったら、やっぱり寝惚けていたのね。ここは、わたしのベッドよ。玖夜のお部屋は、お隣ですよ」
「え……」
言われて玖夜は慌てて辺りを見回した。
淡い緑色で統一されたこの部屋は、爽やかな色に反して甘く可愛らしい。
ベッドの枕元には、若葉色の花柄の布地で作られたウサギのぬいぐるみがくてっと寝っ転がっている。
本当ならリルラの隣で寝ているはずだったのだろうが、途中で玖夜が割り込んで来たために上の方に押し上げられてしまったのだろう、なんとも言えない哀れな姿で転がっていた。
「あ。……その。ごめん……」
「ふふ。構わないわよ。昨日の今日ですもの。一人は不安だったのでしょう……?」
リルラはベッドの上に起き上がると玖夜を悪戯っぽく覗いた。
フワフワの長い巻き毛が朝日に輝いて、無情にも玖夜を魅了する。
(……物語のお姫さまって、リルラみたいな人なんだろうな)
そんな風に思い、少し羨ましかった。
今までの人生の殆どを《男》として育った玖夜である。その事を不服に思ったことはないが、そこはやはり女の子。ふわふわと可愛いその容姿に玖夜は少し、憧れる。
リルラはいつも髪を結い上げているので、その長さはそれほどないように感じるのだが、実際は腰の辺りまでその金の髪は流れている。
ベッドに座れば、その柔らかな巻き毛は黄金の湖のように拡がり、淡い緑色のシーツの上は幻想的に輝いた。まるで夢の中のようだ……と、玖夜は思う。
思わず、滑らかなその髪に触れた。
細くきめ細やかなそのその髪は驚く程に柔らかくて、クルクルと巻いているのにも関わらずするりと指が通るのだ。どうしてこんなに、サラサラなんだろう……? 玖夜はいつもそう思う。
「綺麗な……髪……」
ポツリとそう呟くと、リルラはくすりと笑う。
ラースよりも濃く深い深緑色の目が、優しくにっこり微笑んだ。
「何を言うのかと思えば……」
そう言って、ふふっと笑う。ベッドの脇にある小さなテーブルに置かれた銀の櫛に、手を掛けた。
可愛らしい薔薇の彫刻が施されたその櫛は、リルラがラースから贈られた誕生日プレゼントなのだそうだ。以前リルラが、嬉しそうに話してくれた。
その誕生日プレゼントは、騎士養成学校での遠征で、王国の北に位置するフィザールへ赴いた時のお土産でもあったそうで、リルラはそれをとても大切にしていた。
フィザールは、木材が有名でこの銀の櫛の他にも、家具や造船、それから建物を造る技術が発達している地域でもある。近くに運河が流れており、そこからエルダナの首都である王都へと、様々な荷が運ばれる。
広大な土地があり、多くの密林がその土地の多くを占めている。
隣国フェダール国との国境でもあるこの地域では、フェダール国の騎士見習いを呼んでの演習もよく行われている。自然豊かで土地も広く人もまばら。野外活動をするのにはかなり適した土地と言ってもいい。
リルラはくすくす笑いながら、玖夜の髪を櫛で梳いた。
「玖夜だってこんなに綺麗な髪をしているのに……。《隣の芝生は青い》ってやつかしら……?」
言いながら、サラサラと髪を梳く。
玖夜の漆黒だった髪は、もう黒くはない。
透き通るほどのその白は、白銀に近い。真っ直ぐに伸びたその髪は背中に少し掛かるくらいだ。毛先だけが少しくせっ毛があるのか、くるりとそっぽを向いている。それが玖夜の無邪気さを表しているようで、とても可愛らしいのに……とリルラは思っている。
「ふふ。髪を梳く必要もないわ。どこも絡まってないもの……」
笑いながら、今度は自分の髪を梳かす。
「でも、不思議なのよね……。ずっと気になっていたのだけれど、……」
ポツリと呟く。
「ねぇ、玖夜」
言って玖夜の顔を覗いた。
「フィーリシュカって、あの髪どうやって梳いているの?」
まじまじと聞かれ、玖夜は返答に困る。
「え? えぇっと、……普通。普通に?」
「普通? 普通ってどんなよ。だって蛇たちはどうなるの? 櫛で梳いたりしたら、傷つくんじゃないの?」
思ってもみなかったリルラのその問に、玖夜は自信がなくなる。
「う。……だって、本当に普通に梳いていたと思うし……」
正直なところ、全く気にも止めていなかった。
リルラの髪は気になるのに、何故あんなにも個性的なフィーリシュカの髪は気にならなかったんだろう……? そんな思いが込み上げてきて、玖夜はたじろぐ。
「うー。もういい! 見てきた方が早いわ!」
そう言うが早いか、リルラは寝衣のままベッドを降りる。足首まである寝衣がフワリと舞った。
「ほら! 玖夜も……!」
しーっと指を口に当てつつ、玖夜の袖を引く。
「う、うん」
誘われて、そっと床に足裏をつけた。
ひやり……と冷たい感覚が、はだしの足元を襲う。
ぺたぺたと足音を立てつつ、フィーリシュカの部屋の前まで来ると、リルラは寝衣の裾を持ち上げて、つま先立ちをした。真剣な顔で、玖夜を振り返る。
「いい? そーっとよ、そーっと近づくの……」
「分かった」
玖夜も真顔になって、頷いた。二人でこっそり静かに、フィーリシュカの寝室へと忍び込む……。
くすくすと忍び笑いが思わず漏れる。
フィーリシュカはまだ気持ち良さそうに眠っていて、ふんわりと気持ちよさそうなインカローズ色の掛け布団が規則正しく上下し、穏やかな寝息が聞こえてきた。
ベッドの脇には、先程のリルラの部屋と同じように棚が置いてあって、その上には小物を入れる棚のついた小さな鏡や櫛が置かれている。フィーリシュカはアクセサリーも好きなようで、銀色の蛇のモチーフを形どったアクセサリースタンドには、小さなピアスが数個飾られていた。まるで蛇の鱗のようだ……と玖夜は苦笑する。
「さて、問題の櫛は……と」
リルラはそっと、その棚に近づいて、置いてある櫛を手に取った。やはり普通の櫛だ。玖夜の目には、そう映った。
こちらは淡い桃色の丸っこい櫛で、柄には深紅のリボンがついていた。ヘビたちに傷がつかないようにだろうか、櫛の先はフワフワの毛で覆われていて、柔らかだった。リルラは勝ち誇ったように、ニヤリと笑う。
「ふふ。ほぉら。やっぱり普通の櫛ではなかったわ」
言っていきなりベッドに飛び乗った。
「フィー! 朝ですよぅ!!」
「……!? ひゃっ。ま、まぁ、何事ですの……?」
いきなり抱きつかれ、フィーリシュカは驚く。
「うふふふふ。ほら、玖夜! 玖夜も……!」
リルラが悪戯っぽく目で合図する。
それに気づいて、玖夜も小さく笑う。
「うん! フィー、おはよう! 今日はとても天気が良いんだよ!!」
「え? 玖夜さままで!? 本当にどうしましたの?」
抱きついた玖夜は、二人に頬擦りをする。
(あったかい……)
二人のあたたかさを感じて、涙が溢れる。
「あったかい……」
口に出して、二人を抱きしめる。ずっと、足りなかった何かに触れた気がして、一気に気が緩んだ。
緩んだ拍子に、ずっと堪えていたものが耐えきれずに溢れ出す。ポロポロ、ポロポロ……と涙が止まらない。玖夜は照れくさくなって、そっぽを向く。
「玖夜……?」
「玖夜さま……」
二人はそんな玖夜を、そっと抱きしめる。
優しい光とあたたかさと、そして優しい香りの中で、三人は幸せを噛み締めるように抱きしめあった。