リルラと玖夜
カナカナカナカナ……。
蜩が、静かに鳴いた。
物悲しさをたたえたその鳴き声は、今の玖夜の心を表しているかのようだ。
もう日は暮れかけている。
西に傾いた太陽は、樹液のようにトロリと溶けて、今にも地上を焼き溶かしてしまいそうな、そんな濃厚な朱色に染まる。
けれど、連日うだるような暑さのこの夏も、もうすぐ終わる。
その証拠に、さきほど降った雨のお陰で、今はいくぶん涼しくなり、さわさわ……と秋の匂いを微かにさせて、優しい風がふわりと吹いた。
暮れゆく夏空を眺めながら、玖夜は溜め息をつく。
ラースと出逢ってもうすぐ一年が経とうとしていた。本当なら、「あんな事もあったね!」と言いながら、笑いあっているはずだった。笑いながら、この夕焼けを見たかった。
けれどもう、そんな事は出来ない。
未だにラースとダリスの行方が分からないのだ。
何時になったら見つかるのだろう……? ……本当はもう、見つからないのではないか……そんな不安が頭をよぎる。
冬になりかけていたあの日。
マトラ公国で起こったあの事件以来、二人は忽然と姿を消した。
一人はマンドレイクに攫われ、生死すら分からない。
一人は自分からいなくなり、未だその所在が分からない。不安定なその魔力を今はどう処理しているのか、玖夜は分からなかった。
分かるのは、まだ切羽詰まった状況にはなっていないと言う事──。
魔王の生まれ変わりであるラースが、本来の力に目覚めれば、この世界のどこかで、争いが起きるはずだ。
魔王としてのラース。
あの優しかったラースも、魔王となれば、冷たい心で以って人々に仇なすのだろうか……。
(……ラース……ダリス……。なに、してるんだよぅ……)
膨大な魔力を秘めていたラースには、玖夜自身が作った、封印のピアスを贈った。けれどそのピアスはラース自身が割ってしまい、今はもう、本来の力を発揮することは出来ない。
(……あのピアスが健在なら、少しは安心出来たのかな……)
ぼんやりと玖夜は思う。
けれどすぐに、頭を振った。
「……そんな訳、ない」
大切な友だちが、二人も行方不明になっているのだ。《多分大丈夫だろう》……などという無責任な想像だけで、安心出来るはずもなかった。
「はぁ……」
机に突っ伏し、溜め息をつく。
学校の机は、木のいい香りがした。
机だけではない。
校舎、家具、全てが木で作られていて、ほのかに優しい香りを放つ。
本来、木造……といっても、ずっと良い香りがするわけではない。当然、魔法でその香りを維持している。学業に打ち込めるように……心安らかであるように。
そんな想いを込めて建てられたこの学園には、こうした変わった魔法の使い方をしている所が随所に見られる。
玖夜は、そんな何気ない心配りが、大好きだった。
「ラース……ダリス……」
二人に、学校の話をしたかった。
入学したらお祝いしてくれるのだと、信じて疑わなかった。
……それなのに今、二人が何処にいるのか、生きているのか死んでいるのか、それさえも分からない。
(一緒に探してくれるって言ってた兄さまも、結局はエルダナ国王の要請で、公務に引っ張りだされてそれどころじゃないし、俺に至っては、学校から出ることも許されないなんて……)
容易に探しに行けない、自分の身の上が呪わしい。
実際、学校から出れないわけではない。
校内の《香り》にすら気遣う学校が、そんな束縛をするわけがない。ただ単に、完全な全寮制だった。……というだけだ。
学校に入学した時点で、寮生活が確定し、国外どころか自宅にすら戻れない。……ただそれだけの事。
もちろん規則に抗って、探しに行くことは出来る。
けれど、どこを探す?
──まずは、自分の足場を固めろ……!
(兄さま……)
玖夜は、時臣の言葉を思い出す。
《焦っても良い結果は生まれない。まずは準備をしろ。お前の場合は、魔力を使いこなせるようになるのが、最大の近道だ》
そう紫竜である兄さまが言った。
(そう……なのかも知れない)
実際、玖夜がエルダナ国王を飛び出して、人を探す……などと言うことは、不可能に近かった。探す場所が定まらないとか、魔力が安定していないとかではない。心が壊れかけていた。
いつもそばにいてくれると信じていた存在が、簡単にいなくなった。
何も言わずにいなくなった。
止めれたはずなのに、掴めなかった。
それは、子どもの頃に受けた記憶と少し似ていて、玖夜の心を大きく抉ってしまったのだ。
──……まずは、学校へ行きなさい。
落ち込んだ玖夜に、父であるセウは、静かにそう言った。
──ラースも喜んでいただろう? 行かないなど、あれが悲しむぞ?
そう言って、制服を出して来た。
──しかし、これは使えないな。今はもう女の子だしな。
少し悲しそうなその言葉に、玖夜は頭を振った。
──ううん。俺、これ使う。
ダリスとラースに見せたことのある制服。
自分を偽って、男のフリをしていた玖夜も、もうその必要がなくなった。当然、制服も女の子用のスカートを……とセウは勧めたが、玖夜は丈を直しただけで、そのままその制服を使った。
そのことに対して、特に中傷などなかった。
そもそも竜人である玖夜とゴルゴーンであるフィーリシュカの入学……の時点で、特殊なのである。今更制服がどうのという輩は存在しない。
王国内には、多くの学校が存在する。
特に玖夜が今いる王都では、人口が多いため、学校もそれなりの数がある。
その中でも王立学校は八校。
気さくな性格のセウのおかげで、つい忘れがちだが、玖夜は一応貴族である。魔力量も半端なものではなく、通常の学校では教えを乞うこともままならない……であれば一般的な学校ではなく、王国が設立したこの八校の中から入学先を決めるのが、望ましいだろうという事になった。
王立学校のそのほとんどは、中等部と高等部一貫校である。
魔力量や学力、体力を測定し、自分に合った学校を決めるのが本来のやり方なのだが、玖夜は既に行き先を決めていた。
──ラースとダリスの行った学校がいい!
あの時はまだ二人がいて、玖夜のその言葉に、ダリスが真っ先に喜んだ。
──おお! そうか? あそこにはリルラがいるぞ!
──リルラ?
──ラースの妹だよ。
──ラースの? 妹?
──んー。玖夜と同い年くらいかな?
──あぁ、そうだな。玖夜に何となく似てるぞ。
──……俺に?
──見た目……じゃなくて、性格が。何となく……な。
《玖夜とリルラを並べてみたい》
そう言ってダリスは、笑った。
(ラースは……、変な顔をしていたっけ)
思い出しながら、ふふふと笑う。
「……」
玖夜は顔を横に向け、窓の外を見た。
朱に染まり始めた窓の外は、驚くほど平和そのもので、二人がいないというその事実が嘘のようだ。
玖夜は、目を細める。
確かに、ここ王立アムリル魔術学園は、ラースとダリスの母校でもある。
しかし二人がいたのは、三年間だけだ。
ラースとダリスは、騎士科を専攻したために途中からガルディア騎士養成学校へと編入している。
同じ敷地内ではあるものの、学ぶ内容は全く違う。
「……俺も騎士科に行こうかなぁ」
ボソリと呟いてみた。
同じ学校へ行けば、考え方も同じになるかも知れない。そしたら行き先が、分かるかも知れない。そんな風に思った。
「……」
(そんなわけは、ないじゃないか……)
自分でも馬鹿なことを……とは思う。
けれど探すあてが何処にも見当たらず、正直玖夜は参っていた。
(早く、何らかの行動を起こしたい……)
思うように行かない自分が歯痒くてならない。
(俺はまだ、子どもなんだ……。まだ何も出来ないでいる)
妙なところで実感し、再び溜め息を吐こうと、息を吸う。
するとその時、耳通りの良い、涼やかな声が教室に響き渡った。
「まぁ、玖夜ったら、もう進路を決めたの? なになに? 騎士科? お兄さまと同じ進路じゃないの」
声の主の方を見ると、ぷーっと膨れた可愛らしい女の子がいた。
淡い金髪のくるくる巻き毛を、緩やかに編み込んで結い上げている。
おくれ毛がくるんとなっていて、少し色っぽい。
夏も終わり……と言ってもまだまだ暑い。汗ばんでいるその首筋には、金の巻き毛が張り付いていた。
きめ細やかなその肌に張りついていると、玉のようなその汗も、汚い感じは少しもせず、むしろ清々しく思えるのが不思議だ。
手にはプリザラという、竜型の小さな氷の魔物を持っていて、その竜の吹き出す氷混じりのその風を顔にあて、とても気持ちよさそうだ。
「リルラ……」
玖夜は、微笑み返す。
正直今、リルラには逢いたくなかった……。
玖夜は、リルラにバレないように、目を逸らした。
ダリスはリルラが玖夜によく似ていると言ったが、やはり血を分けた兄と妹。
リルラは、ラースによく似ていた。
笑顔など瓜二つで、時々錯覚を起こしそうになる。
「……」
リルラを見て、少し歯噛みする。
実際のところ玖夜は、リルラのことが嫌いではない。
むしろ気が合うので、一緒にいて疲れない。なんでも話す事が出来る気の許せる相手でもある。
しかし、いかんせんリルラは、ラースによく似ている。
いや、似すぎている。
(だから時々ラースのことを思い出して、悲しくなる……)
玖夜は、俯いた。今は、逢いたくなかった……。
耐えるように、ギュッと目を閉じる。
「あぁ! もう、疲れたわ。やっぱり真夏にテニスなんて、やるもんじゃないわね……」
言いながらリルラは、玖夜の隣に座る。
ふわりとラベンダーの香りが薫った。
「う……」
ラースと同じ、ラベンダーの香り……。
思わず泣きそうになって、鼻をつまんだ。
「え? やだ。臭かった? 汗臭い???」
ふんふんと自分の匂いを嗅ぎながら、リルラは慌てて立ち上がった。
一歩自分から遠ざかろうとするリルラに気がついて、玖夜は慌てる。
「あ、違っ……そうじゃなくて……っ」
顔を上げた拍子に、涙が溢れた。
「!」
リルラの息を呑む音が聞こえる。
「あ……。これは……」
言い訳しようとしたが、涙が止まってくれない。
ぽろぽろぽろぽろと、驚くほど涙が頬を伝った。
玖夜は、慌てて涙を拭いて、必死に笑みを顔に貼り付けた。
「お、俺……俺……」
何か言わなければと、口を開くが、言葉にならない。
しだいに耐えきれなくなって、それは嗚咽となる……。
「……玖夜」
リルラはそう呟いて、そっと玖夜を抱きしめた。
抱きしめるリルラの表情も、切なげだ。
リルラは何も言わない。
玖夜の気持ちが分かるから。
リルラは玖夜の頭を、静かに撫でる。
励ましの言葉も、優しい言葉も、今はいらない。
あるがままの玖夜を、そのまま優しく受け止めてくれるリルラが、玖夜は大好きで、そして不安になる。
(だってリルラだって、こんなに震えている……)
リルラはラースの妹。
家族がいなくなって不安なのは、当然だ。
(きっと、俺より、不安なはず……)
なのにこうして包んでくれる。
ラースと同じ顔。
ラースと同じ匂い。
ラースと同じ優しいリルラ……。
(だから、俺がラースの代わりに、君を守るんだ……)
リルラに出逢った初めてのあの日。
玖夜はそんな風に、今と同じことを思った。
──俺が、リルラを守る……!
大好きな人の家族が、これ以上悲しまないように。
リルラが、これ以上泣かないように……。
けれどそれは、難しい。
(俺自身が、まだ悲しいから……)
優しい香りに包まれて、玖夜はそっと目を閉じる。
ふわりと窓辺のカーテンが風に煽られ、緩やかに揺れた。
優しいこの風が、あの人たちにも届きますように──。
どうかどうか、あの二人が、
今も何処かで幸せでいますように──。
静かに、そう祈った。