恋愛というもの――個人的な見解
暇つぶしにでもどうぞ
恋愛――この手の話題は何時の時代にも描かれている話。
スタンダールが【恋愛論】との題名の作品を残している。
あるいは昭和の文豪:坂口安吾も同じ題名【恋愛論】と、それについて書いている。
恋愛による情死といえば、かの劇作家シェイクスピアの【ロミオとジュリエット】がある。
この劇に描かれる、周囲の反対に対して燃え上がる熱愛と情死の関係から、ロミオとジュリエット効果……と、言う理論を米国の学者が造語したのは、私のような好事家には有名な話だろう。
そら、何時の時代だって人の悩みなんぞ、どんなに少なく見積もっても、半分はコレに尽きるのではないだろうか?
だから、今更私が、コレについてなにか書こうと思っても、私なんぞよりも遥かに語彙に溢れ、表現に優れ、人を魅了し、考えさせ、人生に指標を与える様な作品は多々ある。無意味なのだろうと思う。
ただ……世間様からは大人という、大分いい歳になって思った、恋愛ということについての考えを、未熟ながら述べさせていただく。
私より先達はもとより、後進の者も20をすぎれば、こんなコトは実感のうちに在るだろう。コレは、ちょっとした暇つぶしにでもなればいいと思う。
私が恋愛について、平成という時代と歳をほぼ同じくして悟ったのは、一つくらいだ。そして、それは極めて陳腐なもの。
――大人と子供の恋愛は違う。
突き詰めて言えば、これだけである。コレに行き着く過程を述べても、やはり平凡だろう。
子供の……ハタチ程度の恋愛など、相手が欲しい。二人だけの括り。そう、先に上げたロミオとジュリエットに描かれる御二方そのまま。
狭いモノだから、甘い。酸っぱい。熱い。……この様に純粋な表現だけで彩られる。
それ以降の大人と云われる年齢の恋愛となると、話が変わる。否応なく社会というのを理解し、己の家や相手の家、所謂家格。周囲の目……それらの要素を悟れるようになる。
そのくらいの歳になれば、アヤマチと言うべきだろうか?ともかく、過去が……それまでの関係が様々につきまとうものだから、事情を酌まなくてはならなくなる。
例えば、冒頭に上げた坂口安吾は【我が人生観(一)生れなかった子供】にて、女房がバツイチ子持ちで、子供は実家に預かりだったから、引き取るかどうするか悩み、一日その子供に会ってみて『愛せないから(引き取るのを)やめた』と女房に言い、逆に『頼みもしないのに。何を云う』と、口論になった事を綴っている。
そう、大人の恋愛とは、それまでの相手のすべてを、認めねばならない。浮気だろうと、裏切りだろうと、相手にあってことを全部引き受ける覚悟を持たなくてはならない。
仮に、最後には『引き受けられない』と拒絶することになっても、過去を否定することは出来ない。
子供の頃の恋愛なら、「(相手の)コレが美味しくないから、気に食わないから、いらない」と言って関係が終わりに成るが、大人の恋愛とは、相手の"すべて"を認めた上で、引き受けるのか、どうするかを考えなければならないということなのだろう。
味で表現すれば、うま味のみではなく、苦味、辛味、渋み……相手に含まれる雑味すべてを味わい、飲み込むということ。――それが大人の恋愛。
コレが私の考える、子供の恋愛と、大人の恋愛の違い。
離婚というところに行き着くのは、いきつかずとも仮面夫婦に成るのは、大人の恋愛ではなく、子供の恋愛で結婚に行き着いてしまった。恋愛至上主義の弊害。その結果なのではなかろうか・・・。
巷には鬱陶しいほど恋愛を題材にした娯楽が溢れているが、本当に面白いと思える恋愛戯曲は、子供と大人、この恋愛観の違いを然りとわきまえているモノと、私は考えている。
坂口安吾の【我が人生観(一)】は『女房よ。恋人の名を叫ぶことを怖れるな。』と綴られ、自分の恋愛に関する傷と、女房の傷も受け入れてる事が描かれている。
私が、ここまで行き着いているとは思えないんだよなぁ……。
太宰が安吾に『あなたが一番お人好しだよ。好人物だ。』と言ってるけど、本当にそう思う。大人の恋愛ってすべて飲み込めるなら、良いモノだと思う。
しかし、他人事にこうやって、あーだこーだ書くなんて……
『他者への没頭は、それが支援であれ妨害であれ、愛情であれ憎悪であれ、つまるところ自分からの逃避の一手段である。』by.ホッファー
こんな言葉が在るように……うん、暇人なんだろうな。