表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TS百合  作者: てと
1/7

001 隠れて、生きよ。

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


 幸福とは、心身に苦痛が存在しないことである――と、ある哲学者が言った。

 どれだけ質素な生活であろうと、怪我も悩みもなければ幸せな状態なのであり、逆にどれだけ裕福な暮らしをしていようと、病気や懊悩に苛まされていれば不幸というわけである。なるほど、確からしい言い分である。

 金・名誉・権力・友人・恋人……さまざまな要素が人生にはあるが、どれも絶対的に価値付けることはできない。ひとによって、それがどれほどの量でどれほどの影響がもたらされるのか、千差万別すぎるのだ。単純な功利計算などできようはずもない。


「…………朝か」


 はるか昔に、論文テーマとして研究した内容をふと思い返しながら、俺はぼんやりと呟いた。

 窓から朝日が差し込み、俺の顔を白く照らしていた。いつもの起床時刻だ。そして、すぐに仕事が始まる時間でもある。


「さて……」


 くだらない思考を巡らせたおかげか、意識ははっきりと覚めていた。昔から寝覚めは悪くないタチではあったが、“ここ”で働くようになってからは生活の規則正しさに拍車がかかり、機械のように寝起きできるようになっていた。なかなか効率的な体だ、と自分でも思う。

 ベッドから下りて、俺がまずやることは――


挿絵(By みてみん)


「起きてください、リタ」


 向かいのベッドのもとへ歩み寄り、掛け布団に包まった相方の肩を揺らす。ううん、と呻きながら、彼女は顔をこちらに向けた。十代前半の少女の、あどけなさが残る寝顔。それはほほ笑ましい光景であるが――許されるのは休日の時だけである。


「起きなさい」


 俺は少し強い語調で言いながら、無理やり彼女の布団を引き剥がした。

 相部屋の少女――リタの姿がさらけ出される。栗色の癖っ毛と、そばかすの少しある小顔。身に付けているのは、薄い布地のシュミーズと、紐を結んで留めるタイプのパンティのみ。まだ寒くない時期なので、寝入る時は下着姿が基本である。


 ――もちろん、それは“俺”も同様で。

 いま自分の服装は――目の前の“少女”と、ほとんど変わりはなかった。


「朝ですよ、リタ」


 そう呼びかけて、彼女の肩を叩く。すると、やっと寝坊助の眼が開かれた。だがその半目の瞳は、まだぼんやりとしていて、覚醒しているとは言いがたい様子だ。

 リタは寝ぼけながらも、ようやく俺に視線を向けて声を上げた。


「う……むにぁ……おはよぉ……カレン」

「おはようございます。……寝癖がついていますよ」

「んー……」


 側頭部のぴょこと跳ねた髪に、気だるげな表情で触れるリタ。寝相が悪いからか、彼女の頭にはしょっちゅう寝癖がついていた。髪の質というのもあるのかもしれないが。


 そういえば、俺は寝癖で悩んだ経験がないな――と、自分の髪に軽く触れる。

 肩にかかる程度まで伸びた黒髪は、さらりとした肌触りだった。とくに手入れはしていないし、するつもりもないのだが、この艶のある髪は少し気に入っていた。黒という髪色が、“前”と同じで親しみを感じられるからかもしれない。


「遅刻して、ミセス・スターンに叱られても知りませんよ」


 いまだベッドの上でぼうっとしているリタに忠告して、俺は彼女のベッドから離れた。他人を気にかけることより、自分の身支度を優先しなければならない。

 洗面器に水を張って、顔を洗う。冷たい水は、かすかに残っていた眠気も完全に拭い去ってくれた。それから部屋の隅にあるクローゼットに赴き、仕事服を取り出す。黒い布地のドレスに、白いエプロン。いわゆるメイド服である。


「…………」


 俺は衣服を手に携えて、化粧台の上に掛けられた鏡に目を向けた。


挿絵(By みてみん)


 ――そこには、あまり感情が見えない十二歳の少女が映っていた。


 ほとんどの時間を屋内で過ごすため、その肌は雪のように白い。それを美しいと捉えるか、不健康と捉えるかはひと次第だろう。俺は後者だと思うが。

 顔立ちはかなり整っていて、美少女と呼んでも不足はない端正さだった。もっとも――それを活かすことは永劫なかろうから、宝の持ち腐れというやつかもしれない。


「…………」


 鏡に映った像を睨みつけるように、俺は目を細めた。

 ――睨み返してきた少女の瞳は、ひどく冷淡で生気に欠けている印象だった。その年頃の女子にあるべき、健気さや爛漫さはどこにも見当たらない。世界というものは、人生というものは、それほど夢にあふれた素晴らしいものではないと、知ったふうな目つきをした生意気なクソガキだった。

 その少女は――紛うことなく、俺の姿だった。


「…………」


 覚醒し冴えわたった頭は、この自分の姿が確かなものであると証言する。幼いころから紡がれた記憶も、今の俺が女性であることを保証する。俺が年若い少女であることは、否定しようがない事実だった。


 鏡の少女は、皮肉げに唇を歪めた。……笑顔がない、とよく指摘されるのだが、どうにも俺には愛想のよい笑いを浮かべるのが苦手らしい。こんな表情を見せるくらいだったら、無表情のほうがよっぽどマシだろう。


 つまらない笑みを消し、手早くメイド服に着替える。この屋敷の仕事着はすべてお仕着せ、つまり統一された制服である。制服は俺にとって好ましいものだった。没個性なそれは、自分の異端すぎる“個”に対する意識を和らげてくれる。


「うにゅぅ……ふわぁ……」


 気の抜けるような声が聞こえてきて、俺は眉をひそめながらそちらに体を向けた。案の定、リタがあくびをしながら、ようやくベッドから這い出てきたところだった。


 同室で寝起きするようになってもう一年近く経つが、この歳の近い同僚は相変わらずの様子だった。睡眠時間はそう変わらないだろうに、こうも寝覚めが違ってくるとは不思議なものだ。本人の努力不足――と厳しい人間は言うかもしれないが、俺はあまりそう思わなかった。脳の構造、作用、それによって発揮される能力――それらは先天的資質に左右されやすいのだから、ひとえに本人に非があると断ずることはできない。ある人には簡単にできても、ある人には途轍もなく困難なことがあるのだ。――俺はそれを、短くない人生で知っている。


 ……また、くだらない思考を繰り広げてしまった。俺は内心で舌打ちしながら、リタに声をかける。


「水は出しておいたので、顔を洗ってください」

「んー、ありがとぉ……」


 蛇口を捻れば水が出てくるような水道は、屋敷三階に位置する使用人の寝室には存在しない。上水道自体は存在するが、電気エネルギーを利用する技術がないこの世界では、上層階に揚水するすべがないのだ。したがって、一階で水瓶や水差しなどに水を汲んで、それを飲料や洗面などに利用する形となる。


 便利な技術にあふれた世界で生きた人間ならば、なかなか苦痛に感じる生活環境と思えるかもしれないが――これが意外と、人というのは環境に慣れるものらしい。用水の不便さも、照明の少なさも、その他もろもろの不自由も、生活を続けていくうえで不思議とそこまで気にはならなかった。この世界の存在に、俺はすっかりと馴染んでしまっていた。――もちろん、“不可思議な力”があることも含めて。


「うへぇ……髪が戻らない……」


 リタは水で濡らした手で頭を撫でつけるが、どうやら寝癖を直すのに苦労しているらしい。俺は化粧台の引き出しから櫛を取り出すと、彼女のもとへ差し出した。


「はい、どうぞ」

「あぁ、ありがと。……せっかくだし、あたしの髪、カレンが梳かしてくれない?」

「しません。私はあなたの侍女ではありません」

「ちぇーケチ……なぁんてね。知ってる知ってる、カレンは“お嬢様”の侍女だしね~」

「――雇用契約上は、平のメイドですがね」


 彼女の軽口に、淡々と返す。

 もう二年近く、この屋敷に住み込みで働きつづけているが、今の俺の仕事はほかのメイドたちと少し違っていた。変化があったのは、ちょうど半年くらい前だろうか。その辺りから、徐々に、成り行きとも言えるように普通のメイドらしからぬ仕事を求められるようになってしまった。


 ――それに不満があるわけではない。

 というより、むしろ気に入らないのは同僚のメイドたちのほうらしい。この屋敷で下から数えたほうが早い年下の俺が、立場上は同じ身分でも実質的に高位の業務をこなして、同僚よりもやや高い給金を貰っていることが、生意気でいけ好かないと感じるのだろう。要するに、妬みというやつである。


 どうしてあんなやつが、という感情はわからなくもないどころか、かつての俺にとってはひどく共感できる感情であるせいで、極めて複雑な心境だった。この世には、運に恵まれているやつがいる。才能に恵まれているやつもいる。そして、その反対のやつも存在するのだ。持たざるものからすると、持っているやつらは本当に羨ましくて悔しいんだ。死にたくなるくらいに。


「――先に行っていますよ。部屋を出るときに、施錠も忘れないでくださいね」

「はぁい。もう、お母さんみたいなんだから」


 とっくに用意を済ませている俺に対して、リタはようやくメイド服に着替えている最中だった。遅刻をしないか心配だったが、あれこれ付き添ってやるのも過保護というものだ。俺は彼女の母親でもないし、侍女でもないのだから。


 先んじて自室を発った俺は、一階まで下りてトイレで用を足してから、同階の使用人ホールへと向かう。長いテーブルとそれに見合う数の椅子が並べられた部屋は、使用人たちがミーティングや食事、あるいは休憩をするための場所だった。

 すでに数人の下級使用人が先に待機しており、入室してきた俺に視線が向く。が、とくに親しい間柄の人間はいなかったので、言葉を発する挨拶はなかった。頭をわずかに下げて、会釈する程度だ。


「…………」


 空席に腰を下ろし、大きく息をつく。向かい席のメイド二人の雑談が耳に入ってくるが、あまり興味のない話題ばかりだった。暇な時間に耐えかねたように、俺は目をつむって思考に埋没する。


 ――世界というのは、どうにも奇妙で理解しがたいものだ。


 使用人ホールで朝礼が始まるのを待っている自分の存在に、俺はどうしても怪訝な気持ちを抑えることができなかった。なぜ生きているのか、という問いが生まれてくるのは哲学的な考察だろうか、あるいは科学的な疑念だろうか。

 間違いなく命を絶ったはずの俺が、どういうわけか地球と似たようで異なる世界にいて、こうして今なお確かに生きている。

 そのうえ体はまったく別物であり、外見上の共通点はほとんど見当たらない。しいて言えば、髪が同じ黒色なことぐらいか。


 異なる世界の、前世の記憶。それを保持して生きている人間というのは、少なくとも俺以外にはいっさい心当たりがなかった。まだここに住み込みで働くより前に、図書館で同様の事例がないか必死に本を漁ったものの、けっきょくわからず仕舞いだった。

 推察するにしても判断材料が乏しすぎて、正直なところ“考えるだけ無駄”というのが結論なのかもしれない。


 あるいは、もっと宗教的に、素直に捉えるならば――

 神のように超常的な存在が、俺に生きなおせとチャンスを与えたのだろうか。


「――ふぅ、ぎりぎり間に合った」


 隣に着席しながら安堵の声を上げる少女の存在に気づき、俺はゆっくりと目を開いた。ざっと見回したところ、いつもの使用人はすべて揃っているように見えた。


「遅いですよ、リタ。もっと余裕を持って来るようにしないと」

「う、うぅん、急いだはずなんだけどなぁ」


 あはは……と苦笑する彼女に対して、もっとしっかり忠告すべきだろうかと逡巡する。遅刻を重ねると減給になりうるので、それを咎めることは彼女のための行為ではある。だが、俺は彼女の母親ではないのだ。口煩く言うことは、はたして一介の友人として妥当なのか。――判断が難しいところであった。


 けっきょく俺は口をわずかに開きかけただけで、すぐに閉ざしてしまった。思い巡らすだけで実行できないのは、俺の前世からの悪癖だった。為せば成るとは限らないが、為さなければ成らないのは自明の道理である。それを理解しているというのに、俺は行動を起こさず無為な思考に逃げてしまいがちだった。


「――おはようございます」


 鍵束の揺れる音とともに、冷厳な印象を含んだ挨拶がホールに響いた。上級使用人たる家政婦(ハウスキーパー)――つまり上司に当たる存在の登場に、メイドたちは緊張した面持ちになった。


「おはようございます、ミセス・スターン」


 皆々が立ち上がって、彼女に礼をする。屋敷のメイドにとっては、おそらく当主や女主人よりも恐れられているのが、この眼鏡をかけた四十路過ぎの家政婦だった。人事権を握っているのも理由の一つだが、何よりも彼女自身が厳格な性格であるため、メイドたちの間では彼女の前で粗相をしないことは絶対の掟だった。

 鍵束の音を鳴らしながら、ミセス・スターンはテーブルをぐるりと回るように移動して、メイドたちから寝室の鍵を回収してゆく。仕事中は彼女の許可を貰わないかぎり、私室には戻れないのである。といっても、食事も休憩も基本的に使用人ホールで取ることになるので、サボりたい人間以外にはとくに不都合もない規律だろう。


「皆さん、揃っているようですね」


 鍵の預かりとともに、部下全員の出勤を確認した彼女は、普段どおり冷たく落ち着き払った声で頷いた。

 こうして出欠をとって朝礼を始めるのが、この家での仕事の始まりだ。本日の仕事の予定、外から来客がある場合はその対応指示、あるいはその他もろもろ注意などが伝えられてから、各々の作業をこなしてゆくのだ。


 ちなみに男性の使用人は二階の別室で執事をトップとして、台所の使用人は離れの厨房棟でコック長をトップとして、同様の朝礼と勤怠管理をおこなっている。部署ごとにきっちり別れて、上司が部下を管理する様は、まるで会社のようだ。人間の活動というものは、異世界でもそう変わらないということだろう。


「――以上です。それでは、皆さんよろしくお願いします」


 連絡事項はそれほど多くなかったため、朝礼はいつもより短い時間で終わった。使用人たちはそれぞれ立ち上がり、みずからの仕事へと向かいはじめる。


「……じゃ、がんばってね? カレン」

「ええ、またあとで。リタ」


 声をかけてきた彼女に、そう返す。リタは愛想よくほほ笑んでウィンクすると――使用人ホールから去っていった。

 皆が持ち場へと向かうなか、俺だけはミセス・スターンのもとへ近寄ってゆく。ほかのメイドとは違う仕事について、個別に連絡を受ける必要があるからだ。


「本日もよろしくお願いします、ミセス・スターン」

「ええ、よろしく。……いつもの鍵よ」

「ありがとうございます」


 彼女から仕事に使う合鍵を受け取り、ドレスのポケットにしまいこむ。


「今日も、予定は変わりません。スケジュールに合わせて対応してください」

「かしこまりました」


 俺が淡々と頷くと、ミセス・スターンはわずかに眉を寄せて、訝しむような語調で尋ねてきた。


「……あなたはいつも不満を口にしませんが、もし意にそぐわないのであれば、わたくしから旦那様に打診しますよ。本来の仕事ではないのですから」

「いえ、とくに不満などございません。……そのような表情に、私の顔は見えますか?」

「表情がわからないから尋ねているのですよ」


 彼女は真顔で言った。感情表現が乏しい自覚はあるが、そこまではっきりと言うほどなのだろうか。俺も機械ではないのだから、自然と目や口に情緒が浮かぶはずなのだが。


「年頃の多感な女子らしく、純真で健気な方だと私は思っています。お嬢様にお仕えしていると、私自身いろいろと考えさせられて自分の為にもなりますよ」

「あなたも年頃の女子ですが」

「そうでしたね」


 さすがに思春期の女子のような心理など俺にはないので、なんとも言えぬ心境で受け答えする。

 そして言ってから、ここは苦笑でもしながら肩をすくめたほうが良かっただろうか、と反省する。こういうところで親しみやすい雰囲気を咄嗟に出せないから、俺も同僚との仲を改善することができないのだろう。前世から相変わらず、人間としての能力の欠如を痛感せざるをえなかった。


「……ですが、気にかけてくださって、ありがとうございます。メイドたちはミセス・スターンを怖がっていますが、その厳しさはある種の優しさだと私は思っています。いつも本当に、ご苦労様です」

「――お世辞を言っても、給料は上げないわよ」


 俺の労いに、彼女はどこか柔らかい色を含んだ笑みを浮かべた。女性的で上品で、そして人間らしい微笑だった。

 こちらとしては本心で言ったのだが、世辞として捉えられたのだろうかと少し疑問が残った。彼女は怒りをぶつけることなく、冷静に他者を叱ることのできる能力を持った人間だ。上司として有能でふさわしいタイプであることは、日々の振る舞いを見ている俺にはよく理解できていた。


 語ろうと思えばいくらでも理想の上司論について話せるのだが、まあ今はお互いそんなことをしている場合ではないので、俺は彼女に丁寧な一礼をした。


「お嬢様のところへ行かねばならないので、お先に失礼いたします」

「……ええ、がんばってらっしゃい」

「それでは」


 俺は最後にほほ笑んでみせた――つもりだが、うまく笑えただろうか。

 自信はどこにもなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ