最終話 野球場に蝶は舞う
28―2
黒板に書かれたランニングスコアを見て親川はため息を漏らすのみだ。どことなく暗い様子の親川に声をかけられずにいた織田。幼馴染ですら近寄れないまでの雰囲気なのである。
だがそこへと千嶋が近寄っていく。
「雄太さん」
彼へと並び立つ。
「最初の試合。どうでしたか」
彼は彼女の質問に唇をかみしめながら答える。
「ごめんな。勝たせてやれなくて。今から考えてみれば、最後の声掛けも『1点取ろう』なんて勝ちを投げたような言い方をして……」
親川は彼女たちを勝たせるために、勝つ楽しさを教えるためにこのチームにやってきたのである。その彼の成果がこの26点差による大敗だと言うのだから、彼はやるべきことをやれなかったとも言える。
ただ彼女はそれについて咎めることなく、黒板のスコアを消し始める。
「ねぇ、雄太さん。私、そんなこと聞いているんじゃないです」
「え?」
「私が聞きたいのは1つ」
彼女は振り返って彼の目を見る。
「野球、楽しかったですか?」
彼は少し言葉に詰まった後に吐き捨てる。
「みんな下手くそだ。僕がいた少年野球、中学野球。それを含めて、今までいたチームの中で一番下手だった。なんでもないワンアウトでバカみたいにはしゃいで、なんでもないヒットで大盛り上がり。点が入ったら、お祭り騒ぎ。そんな野球なんて見たこともやったこともない」
彼の答えに彼女は何も言わず耳を傾ける。すると彼は続けた。
「やったことがなかった。こんな野球を……こんなに、はしゃげるような楽しい野球を」
そして、
「千嶋。今日は……楽しかった。とっても。それこそ終盤は、自分の目的『勝たせる』ことを忘れるくらいに」
その一言に彼女は満足そうな顔で黒板を外して片付け始める。
「だったらよかったです。私は雄太さんと約束しましたから。雄太さんに、楽しい野球を教えてあげるって」
「あぁ。でも僕は……」
彼女は彼へと約束を果たした。しかし彼は彼女への約束を果たせなかった。
そこだけが心残りなのである。
すると千嶋は口元に指を当て考え込むような表情。
「そうですね。雄太さんは約束を破りました。私たちに勝つ楽しさを教えてくれるって言う約束を」
落ち込みかける親川だったが、その彼の両手を彼女が自らの手で包み込んだ。
「ですから、私たちを勝たせてくれるまで、勝つ楽しさを教えてくれるまでこのチームにいてください。それが約束を破った雄太さんへの罰であり、新しい約束です」
負けた責任を探すわけでもない。楽しかったならそれが一番いい。
そんな優しい空気に涙がこみ上げてくる親川だったが、顔を袖で拭って彼女へ向き合った。
「分かった。このチームが勝つまでここにいてやる」
「約束ですよ。勝つ楽しさを教えてくれるまで、私たちとずっと一緒にいてくださいね」
小指を出してくる千嶋に、彼も小指を絡める。指切りである。
「因みにさっき泣きそうになりましたね。そんなに、私の言葉が嬉しかったんですか?」
指切りしながら意地悪そうな顔を浮かべる。親川はそっぽを向く。
「バ、バカ、違ぇよ。そんな約束したら、永遠にこのチームにいなければいけないって思っただけだ」
「そ、それって私たちが永遠に勝てないってことですかぁ。そんなに下手ってことですかぁ? そうなんですかぁ」
「そうだよ。悪いか? あんな下手くそが簡単に勝てると思うな」
ケンカではなく仲のいいじゃれ合いか。赤羽が見たら「夫婦漫才」とツッコまれ、どこからともなくやってきた織田に胸ぐらをねじ上げられて……(中略)……しそうな展開である。
「くそぉ。変な約束しちゃったなぁ。永遠にここにいなけりゃいけなくなった」
彼女を残して先に片付けを始める。すると彼女も黒板を手に彼へと追いつく。
「ずっとここにいてくれてもいいですよ。そうしたら、雄太さんとずっと一緒ですね」
「えぇ。どうせ一緒にいるなら、野球バカよりも普通の女子の方が――はっ」
殺気を感じて振り返るとそこにいたのは、野球のしすぎで右肩を壊した別の野球バカ。
「ほほぉ。野球バカと一緒にいたくないと。私は迷惑だったと」
「ま、ま、待て。話せば、話せば分かる」
「あっ、それ僕のセリフ」
赤羽の介入を余所に織田が距離にして数メートルを飛び跳ねて詰める。
「問答――無用ぉぉぉぉぉ」
「ぎゃっふぅぅぅぅ」
そのソバットにより親川が推定5メートルは吹き飛んだとのこと。
赤羽が「ソバットできる身体があれば、なんとか野球はできるんじゃ……」と思ったのは、彼の身の安全も考えて内緒とされるべき案件である。
「ねぇ、赤羽議員。何か考えたでしょ?」
「べ、別に?」
「本音は?」
女の勘とやらで勘付いている様子。赤羽は震える声でウソをつくことに。
「……逃げるが勝ちっ」
「逃がすかぁ」
結局嘘をつけずに逃げ出し、彼を織田が追いかけて行った。
彼女を赤羽がひきつけてくれたおかげでなんとか標的から外れた親川は、立ち上がってベンチへと向かう。
「雄太さん、大変でしたね」
「口は災いの元ってヤツだなぁ」
「さわらぬ神に祟りなしでもいいですね」
「神じゃなくて天魔王――いないよな」
まだ彼女は赤羽を追い掛け回しており……今、サードのあたりでドロップキックをかました。ひとまずこれを聞かれることはなかったはずである。
彼はもう余計な口は開くまいと片付けに移ることに、まずマイバットをケースにしまおうと、立てかけていたバットに手を伸ばした時。それに気付いた。
「グリップに……」
「蝶、ですね」
羽を広げて親川のバットのグリップに留まっていたのである。
なんだかそれを追い払うのも気が引けた2人であるも、直後に風が2人に吹き付け蝶も羽ばたきグラウンドの方へ飛んで行った。それはさながら雪や千嶋と言った風に背を押され、草野球へと身を投じた親川のように。