第98話 弱者と強者
「タルタロスへの道が無いというのはどういう意味ですか」
脳内に響く聖仙シャーキヤの声に、ウィレムは激しく追及した。
世界は一つの巨大な塔の内にある。同じ塔のなかにあって、つながっていない場所などあるはずがない。別の階層と往き来する方法もあれば、塔壁のなかにさえ入ることが出来るのである。道が無いという聖仙の言葉は有り得ないことだった。
興奮し、語気を強めるウィレミに対し、聖仙は朗らかに対応する。ウィレムが取り乱すのを楽しんでいるのか、或いは、彼の感情など気にも留めていないようにも思えた。
「新たに問うのなら、まず吾を満足させるよ。それが約束だ」
そう言われては、ウィレムも引き下がるしかない。自分は幾つも問を重ねたにもかかわらず、相手にはそれを許さないというのは、随分と器量の狭いことだと、ウィレムは密かに毒突いた。だがそれも筒抜けのようで、葉擦れのような笑いが起きて、すぐに消えた。
「然らば問おう。汝、ウィレム・ファン・フランデレンは、強者なりや、或いは、弱者なりや」
「何ですか、その質問は」
予想外の問に、ウィレムは狼狽え取り乱す。
一つ目の問から、神学的な問答や頓知を求められるとばかり考えていた。
「聞いたままの意味だ。汝が自身をどう評価するか、それだけだ。神から賜りし、ご自慢の“理性”に尋ねてみると良い」
興が乗ってきたのか、聖仙は軽口まで言うようになった。悪意は感じないが、気分の良いものではない。なにより、その時のウィレムは冗談を楽しめるほどの心の余裕を持ち合わせていたかった。
「僕は、ウィレム・ファン・フランデレンは“弱者”ですよ」
やや投げやりな口調で言い放つ。苛立ちも自覚していた。だが、相手を頼る立場にあることを思い出し、気持ちを落ち着かせようと深く長く息を吐いた。もちろん、実感は伴わない。
「汝はそう思うか。して、その心は」
「僕には出来ないことが山ほどあります。それを強者とは呼びたくありません」
相手が一般論ではなく、ウィレムの本音を求めていることは、一つ目の問答で承知していた。それ故、思うままの気持ちを吐露したつもりだった。
生まれついて以来、「強者」の呼び名に相応しい者を何人も見てきた。アンナにルイ、レオポルドやナルセス、特定の分野においては、アルベールやマクシミリアンも常人離れしたものを持っている。彼らは間違いなく強者である。そのなかに自分を含めることには、どうしても違和感を覚える。
同じことを考えたことがある。フランデレンの郷を受け継いだ時のことだ。
幼い頃に見た兄は、まだ十を少し越えた程度の歳で、父の仕事を助けていた。教わったことは一度で物にし、気さくで領民にも愛されていた。ウィレムが修道院に入る頃には、領地の切り盛りは実質レオポルドが一人で担っていたほどである。
還俗し、父の後を継ぐと改めて兄の手腕に感服した。兄の真似ようとしたが上手くいかなかった。直営地の耕作が滞ることや、水利をめぐる領民同士のいざこざを裁くのに苦心したこともあった。教会とのやりとりは面倒で、民が逃げれば心が痛んだ。
半端者だという自覚はある。そして、そう在りたくないとも思っている。だが、どれだけ懸命に走っても、追いつけないものが在ることもわかっていた。
「確かに汝は弱い。何をしても人並みには出来るが、卓越したものは一つとして持ち合わせていない。汝の実なるは弱者で在る。だが、汝の魂の有り様は弱者のそれでない」
「言葉の意味がわかりません。力が無いのですから、僕は弱者でしょう」
何度も自分で言葉にすると辛いものがある。だが、理由もなく弱者でないと言われたところで、素直に受け取ることも出来なかった。世辞を言われても惨めさが募るだけである。
「弱者とは、自らの無力を知る者のことだ」
「今更言われなくても、わかっています」
「どうかな。弱さを知るということは、他者を頼らねば生きてゆけぬことを承知しているということだ。弱者は弱者故、救いを求めて願うことが出来る。形振り構わず慈悲に縋ることが出来る。汝の在り方はそうではなかろう」
反論できなかった。始めに聖仙が神についての問答を行ったのは、二つ目の問答でこの答えを導くためのものだったのだ。全ては彼の掌の上だった。
「神すら頼らぬその在り方は、強者のそれだ。強者とは自らの力を信じる者、自らの力で道を切り開こうとする者のことだ」
「僕に、そんな自信はありませんよ」
搾り出すようにして、感情を言葉に変える。相手の言うことは理解できるし、強者と評価されて悪い気はしないはずだった。だが、締め付けるような違和感は消えず、吐き気に似た不快感が喉の奥まで満ちる。
「汝は弱さを自覚している。だが、心底では、人を頼らず自らの力で事を為そうと考えている。その在り方は傲慢で歪だ。そうは思わないか」
聖仙の声は嬉々としている。悪意は感じない。ウィレムを貶め、苦悩させることを楽しむのとは違い、問答そのものに興じているように思えた。
「それでも、僕は、僕の脚で進まなければならないのです。自分の力でとどかなければ、意味がないのです」
恥も外聞も、論理すらかなぐり捨てて、叫ぶ。感情が理性を追い抜いていった。
「その歪さは、いつか汝の身を滅ぼすぞ。だが、齟齬を抱える在り方もまた、面白い。汝の二つ目の問に答えようではないか」
聖仙は満足そうに声を挙げる。
ウィレムは臓腑が冷や汗をかいたような奇妙な疲労感に襲われていた。自身の腹を割き、目の前で腑分けする様を見せられているような感覚。これがあと一度続くかと思うと気が滅入った。