第97話 岩屋の聖人
石窟寺院の奥はどこまでも果ての無い暗がりだった。入口付近に差し込んでいた朝日はすぐにとどかなくなり、辺りは黒一色に塗りつぶされる。目が頼りにならず、手探りで進まざるを得ない。
暗闇のなかにいると、時折、方向感覚が働かなくなることがあった。自分が前進しているのか、後退しているのかが不確かで、右も左もわからない。仕舞いに天地さえもあやふやになり、地面に足を付いているかも疑わしく思えた。
砂と石の匂いは消え、物音一つしなくなっていた。自分の足音が聞こえないことに気付いた時には、既に全てが遅かった。
背中で鳴っていたアンナの啜り泣きが止み、彼女の体温も、感触も、全て消え失せていた。必死になって彼女の名を呼ぼうとした。しかし、出したはずの声は自分の耳にも届かず、頭のなかだけで木霊する。
ウィレムは真っ黒な空間に投げ出され、独り漂っていた。五感は全て言うことを聞かず、身体が在るのかさえも定かではない。魂だけが身体という檻から脱け出すと、そのような感覚になるのではないかと思った。
自分のことはさておき、アンナや仲間たちの安否が気に掛かった。特にアンナは打たれ弱くなっている。一人にするのは危ういことに思えてならない。
「心配はいらない。彼女も吾の大切な客だ。丁重に持て成している」
突然聞こえた落ち着いた声にウィレムは驚く。声が聞こえると言っても、耳は相変わらず眠ったままだ。頭蓋に小人が入り込み、なかから直接語りかけているようなむず痒さを感じた。
「貴方は誰です。僕らに何をしたのですか」
「何も。汝らが吾を訪ねて来た、それだけだ。吾は汝が望むものだ」
声は高くも低くもなく中性的で、抑揚に欠け、ゆるりと歩くような速さで喋る。人の声というよりも、意味を持った音の連なりといった印象だった。
「それでは、貴方がシャーキヤ聖仙なのですか」
「そう呼ぶものもいる。だが、名に意味はない」
淡々と応じる人間離れした声に、ウィレムはそら寒いものを感じた。声の主が本当に自分たちが訪ねた高名な僧なのかと疑念が湧く。それでも、声以外に状況を打破する手掛かりはない。
「僕らは神託により、ここに参りました。どうか、お知恵をお貸しください」
「願いはわかっている。汝の問に三つだけ答えよう」
あまりに呆気なく話が進み、ウィレムは緊張を解きかけた。だが、それまでも、何度となく油断がぬか喜びを招いたことを思い出し、気を引き締めた。度々イージンにおちょくられて、彼も多少は用心深くなった。
「ただし、吾が問うところに答えよ。吾を満足させれば、吾も汝が問に答える」
案の定条件が付いたが、思ったほど厳しいものではない。特別な品物や特殊な技術を求められたわけではなく、要は問答の相手になれば良いだけの話なのだ。
「僕が答えられることであれば、何でも仰ってください」
「宜しい。ならば、汝、神とはどのようなものと心得る」
その問にウィレムは安堵した。神に関する問答は、修道院にいた頃、一通り学んでいる。アルベールから散々意地の悪い返しをされ、頭を抱えたものだ。
「主は全知全能にして、世界を創造し給う唯一絶対の創造主であらせられます」
「否。では何故、万能の絶対者が創った世界に“悪”があるのか。神は善のみの世界を創造することが出来たはずだ」
「主は自らに似せて原初の人を造られました。故に人は理性を持ちます。理性とはあらゆる選択肢を自由に比較し、評価し、選択する能力です。ならば、人に理性を持たせる以上、悪事を為すという選択も含め、自由な選択が出来る世界でなければなりません」
「理性を働かせるには、善悪並び立たねば選ぶことが出来ぬということか。だが、それで悩み苦しむ者もいよう。人の子を思えば理性など無い方が幸せではないか」
「それでは獣と同じです。それは人の在り方ではありません。それとも、人が犬や豚と同じだと仰いますか」
ウィレムは習った通りの答えを返した。聖仙はしばらく黙り応答しなかったが、急に口調を変えて語りかけた。
「杓子定規で詰まらぬ答えだな。吾は汝の本心が聞きたいのだよ」
「嘘など言っておりません。全て真実です」
驚きを隠してウィレムは反論した。人間味を帯びた言い回しがあまりに意外で、不釣り合いに思えたのだ。
「全知全能などと言ってはいるが、汝は神の力など一欠片も信じてはいまい」
「その侮辱は聞き捨てなりません。何故そんなことが言えるのですか」
「汝は神に救済を願ったことがなかろう。どのような苦境においても、全てを捨てて、一心に神に助けを請うたことが、これまで一度でもあったか」
その言葉にウィレムは愕然とした。普段から主への祈りを欠かしたことはないし、感謝の言葉も、信仰の告白も、考えずに口を吐く。だがその実、窮地にあって彼が思うのは、自分に何が出来るのかということばかりだった。或いは、無力を嘆き、力を望んでも、それはどこまでも自分自身に由来する力だった。
「それでは、僕は天主様を認めぬ、大罪人ではありませんか」
感覚のない身体から力が抜けていく気がした。
「汝にとり、神は意思持つ絶対者ではない。慈悲なく、無味乾燥な真理の束。この世そのものの在り方こそ、汝の神なのだ」
聖仙の言葉は納得のいくものではなかった。しかし、喉のつかえが取れ、胸中にすとんと落ちる、そんな感覚も間違いなくある。
「汝との問答を交わすには、ここから始めねばなるまい。宜しい。まずは此にて汝の問に一つ答えるとしよう」
受け答えのどこを気に入ったのか、聖仙はウィレムの与り知らぬところで勝手に満足しているようだった。聖仙の言葉を十分に咀嚼する暇もなく、ウィレムは慌てて質問を考えた。
「僕らはタルタロスへ向かいたいのです。ここからの道筋をお教え頂きたい」
目的を思い出し、最良と思える問を捻り出す。未だ混乱する頭で良く考え付いたと自分を褒めた。だが、返ってきた答えはウィレムの望むものではなかった。
「ここよりタルタロスへ通じる道は、無い」
聖仙は、明確に言い切った。