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第96話 石窟の二人

 憔悴(しょうすい)したアンナを背負い、ウィレムは山道を走った。視界を通り過ぎていく山陰は、一つ一つが黒い魔物のように彼に覆い被さる。だが、彼の心に恐怖はない。大切なものを守りたいという決意と、大切なものを取り返したという充足感だけが、胸中を占めていた。背中に感じる温もりと重さが、その気持ちに確かな手触りを与えた。

 かつてないほど心臓の鼓動が激しく速く拍ち、汗が額を伝って落ちる。息は荒いが苦しさはない。身体は軽く、力を入れなくとも脚は勝手に前に出た。意識と感覚は明瞭で、目に見えないはずの道の隆起までが手に取るようにわかった。


 駆けに駆け、東天が白みだした頃、ウィレムの目の前に絶壁が現れた。山肌に巨大な(まさかり)を当てて傾斜を削ぎ落としたような真っ直ぐの崖に、ぽかりと大穴が空いていた。

 追ってくるイージンとオヨンコアを待ち、ウィレムたちは穴のなかに足を踏み入れた。さしもの怪物も岩穴のなかまでは追って来られないだろうから、休憩がてら身を隠そうという話になったのだ。


 穴のなかは思いのほか広かった。まだ明け切らない朝日を頼りに、薄暗いなかで目を凝らす。並んだ円柱は中央部が緩やかに膨らみ、垂直な壁には浮き彫りの模様が施されている。見るからに人の手で石を削り、()()いてつくった空間だった。



「すごいものですね」



 壁を眺めてオヨンコアが嘆息する。ウィレムの目にははっきりと見えるわけではないが、人や動物が刻まれているようである。

 掌を壁に沿え、指の腹で彫刻をなぞる。車の着いた台を引く四つ足の獣とそれを操る人間の姿が描かれているのがわかった。疾走する二頭立ての戦車の群れと、その(かたわ)らに横たわる無数の人影が壁一面に続いていた。

 岩窟は奥深く、壁に沿って戦いの記憶が続く。何かに引きつけられるように、ウィレムは脚を奥へと運んだ。


 やがて壁画は別の場面へと展開する。

 剃髪(ていはつ)し、(ひげ)を蓄えた男性と、豊かな髪を持つ女性が頻繁に登場するようになった。二人は常に共にあり、戦いに傷ついた人々に寄り添って生きている。

 ウィレムは漠然と二人は愛し合っているのだと思った。



「ウィレムさま、先程は申し訳ありませんでした」



 背中でか細い声がした。耳にかかるアンナの息は今にも消え入りそうで、表情を見ることが出来ないとわかっていても、ウィレムは振り向かずに入られない。



「目が覚めたかい。まだ無理しない方が良い。気にせず、ゆっくりしていなよ」

「ごめんなさい」



 アンナはうなだれ、ウィレムの背中に顔を埋めた。彼女の身体がずり落ちないように、腰を一段深く曲げ、支える腕を添え直した。



「何故あのように危険なことをなされたのですか」

「そこに僕の大切な人がいたからさ」



 (したた)る水のようなアンナの声に対し、ウィレムの答えには力がこもる。揺るぎない信念に裏打ちされた迷いのない声が、坑内の空気を震わせた。



「もう、これきりにしてください。私のような役立たずのために、あなたの身に何かあったらと思うと、私――」

「そのお願いは聞けないよ」



 ウィレムの言葉がアンナの声を途中で遮る。



「何度同じことが起きても、僕はアンナを助けるよ。これは僕自身が決めた、僕の意志だ。例え君のお願いでも、(ひるがえ)すことは絶対にしないからね」



 それ以上、アンナから言葉が出ることはなかった。その代わり、しがみつく彼女の手が一層強くウィレムを抱いた。

 声を殺し、鼻を(すす)る彼女の息遣いがとても愛らしく思え、ウィレムは口元をほころばせる。憧れ、追い続けた人は今、自分の背に負ぶわれ、子どものように泣いている。だが、失望感は欠片もない。共にありたい、それが自分の憧憬の本質なのだと改めて思い知った。

 背中のアンナを両手で支えたため、壁画の二人の終末をウィレムが知ることはない。それでも彼の脚は真っ直ぐに岩窟の奥へと向かっていた。

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