第95話 アンナを取り戻せ
ウィレムは走った。
掛け替えのないものがある。そのために進むならば、方向は前しかない。
後方でイージンの怒声が飛んだが、耳に入らなかった。
ウィレムを守りたいというアンナの思いも、戦っても勝ち目がないというイージンの言い分も理解できる。だが、自分がどうありたいかを考えた時、自ずと答えは決まっていた。
幾千万と並ぶ瞳の一つが地を駆けるウィレムの姿を捉えた。続いて、他の顔もウィレムの方へと向き直る。見知った面々の硝子のような瞳に一瞬怯んだ。ウィレムの足が僅かに竦んだ隙に怪物は身体ごと正対し、無数に生えた腕を得物に伸ばす。
掌の下を潜り抜け、指の間を縫って進む。
横っ飛びで躱し、転がりながら逃れると、目の前には別の腕があった。
腕の速さは人並みで、動きを追うことは出来るのだが、如何せん数が多い。各々の腕を避けることは難しくなかったが、四方八方から襲い来る敵にウィレムは防戦一歩になった。怪物に近付くどころか、前進することも儘ならない。
苦戦するウィレムの耳にドスンという物音が飛び込んだ。身を屈めて左右両方から襲う腕を避けながら、視界の端で音のした方向をうかがう。怪物の足下に先程までアンナの握っていた重剣が突き刺さっている。見上げると、彼女は両手で顔を覆い頭を垂れていた。抵抗する気力すらなくなったように見えた。
アンナに気を取られたほんの一瞬、ウィレムの動きは緩慢になる。気付くと、四方を掌に囲まれていた。逃げ場はどこにも見つからない。
腕はゆっくりと囲みを狭める。上にも下にも逃げ場はなく、相手を退ける武器もない。脂汗が額に浮かび、下腹を絹で緩やかに締め付けるような不快感が身体を強張らせる。最後まで諦めるつもりはないが、焦る頭でどれだけ考えても打開策は浮かばない。
一本の腕が丸太のような指を閉じ、ウィレムの身体を手の内に収めようとした時、不意に怪物の動きが止まった。何が起きたかわからなかったが、その隙に周囲の腕を掻き分けて、囲みの中から転がり出る。
「こいつも貸しだぞ。絶対に取り立ててやるからな」
後方の岩の上に逃げたと思っていたイージンの姿があった。彼は大きく振りかぶると、怪物目掛けて飛礫を投じた。その石が見事、敵の顔に命中する。続け様に二つ三つと投げつけた。
怪物がイージンの方に身体を向ける。ウィレムへの意識は散漫になった。
その好機を逃さじと、ウィレムは脚を一歩踏み出す。怪物の懐は目前だった。
アンナを捕らえた腕はウィレムの頭上高くにあった。手を伸ばした所で届くはずもない。ならば、跳ぶしかない。脚を緩めず、怪物の足下に向かって走った。そこにはアンナの重剣が刺さっていた。
短い鍔に足を掛ける。
曲げた膝と足首を解放し、前進する勢いをそのまま上方へと向けてやる。
跳ぶ。
指先から足先まで伸ばし、空中に身体を投げ出す。
全身が上昇する力そのものになったような感覚。
伸ばした指は怪物の腰帯に辛うじてかかった。勢い任せに身体を引き上げた。
「そっちじゃねえ、背中側に回り込め」
息つく暇もなく、イージンの指示が飛んだ。彼の投げた小石がウィレムに近付く腕に当たり、動きを封じる。
休んでいる時間はない。上衣を手繰り背中に移ると、腕の襲撃は弱まった。どれだけ腕が多くとも、身体の造りは人間と同じなのだろう。背中には手が自由に回らないのだ。四方を見通す四面の瞳だけが背中越しにウィレムを捉え続けていた。
揺れる背を衣に掴まって少しずつ登る。
イージンの投擲により怪物の注意が削がれたお陰で、妨げなく登ることが出来た。彼は常に怪物の腕が届かない距離を保っている。石は足下に幾らでも転がっており、尽きることはなさそうだった。逃げるしか方法がないような口振りだったが、抜け目なく算段の二つ三つは持っていたのだろう。
遂にウィレムは怪物の肩に登りついた。
再び無数の腕が襲い来る。次の行動を考えている余裕はない。
腕の上を伝い、アンナの元へ走る。足下が不安定で、崩れそうになる上体を手をついて支えた。半ば四つん這いに近い姿勢で転がるようにして走った。
「アンナ」
手を伸ばせば、そこに彼女がいる。
ウィレムに気付いたアンナも必死に手を伸ばした。
二人の指先が触れあい、固く結ばれる。
その時、身体を強烈な圧力が身体を襲い、激しい締め付けにウィレムは肺のなかの空気を全て吐き出した。彼を捕えた腕はそのまま二人を引き離しにかかる。
掴んだアンナの手がずるずると滑り、伸ばした腕の節々に痛みが走った。何があろうと離さないと強く思っても、彼女の手は無情に指の間をすり抜けていく。最早、指先だけがつながっているに過ぎない。
アンナと共になりたい、ウィレムは強く望んだ。役割も、他人も関係なく、彼女と一緒にいたい。心底からの純粋で、原始的で、思うままの欲望が胸に満ちる。
二人の指先が別たれようとした瞬間、突如としてウィレムの胸に光と熱が起きた。それは春に注ぐ豊かな陽光のように辺りを包む。胸元に手をやると、スジャータから贈られた首紐が熱を持っていた。不思議なことに強烈な光を直視しても、目が眩むことはなかった。
ウィレムの後ろで耳を裂く絶叫が木霊する。同時に締め付けが弱まったかと思うと、ウィレムの身体は宙に放り出されていた。
光をまとい、ウィレムはゆっくりと地上に降り立つ。見上げた頭上に落下するアンナを認め、急いで手を出すと、彼女の華奢な身体がその腕のなかに舞い込んだ。抱き締めると確かな感触が腕ににじむ。
「今の光はなんだ。どうなってやがる」
イージンが駆け寄ってきた。
怪物が無数の手で顔を覆い悶絶する。顔を真っ赤な炎が包み、熊々と燃え上がった。
「今のうちにここを離れよう、イージンはオヨンコアを連れて来て」
アンナを負ぶうとウィレムはすぐに駆け出した。進む先には真っ黒なカイラース山がそびえていた。