第94話 選択の時
心臓を鷲掴みにされた。そんな言い回しが頭の端を過ぎる。
多面多腕の怪物がウィレムを見下ろす。無数の視線が彼を捉え、身体をその場に縫い付ける。手脚どころか、口を開けることも出来ず、凍りついたように動けない。鼓動だけが驚くほど正確に一定の調子で拍ち続けていた。
怪物の頭上に居並ぶ見知った面々は、色のない視線をウィレムに送っている。その視線の意図がわからず、故にウィレムは動けない。否定なのか、怒りなのか、憎悪なのか、憐れみなのか、その時思い浮かんだあらゆる負の感情がその瞳に宿っているようで、或いは、どの感情とも異なるようにも思えた。
怪物がゆっくりと身体を屈める。枝分かれした腕の一本が音もなく降ってくる。手が開き、巨大な掌が目の前に現れても、ウィレムは動くことが出来なかった。
そのままではいけないことはわかっている。だが、どんなに命じても、指先一つ動かせない。まるで、操り方のわからない傀儡の糸を必死に引いているようで、自分の身体だというのに手応えが全く感じられなかった。
開いた手がウィレムを包み、掴み上げようとする。薄紫の指がウィレムに触れるその刹那、身体に衝撃が襲い、その場から弾き飛ばされた。
岩の上を転がり、肌に擦り傷が出来る。皮膚が熱を持ち、その熱と痛みで縛りが溶けた。
何が起きたのかは承知していた。誰かの手が彼の身体を押し退け、強引にその場から引き離したのだ。白く透き通り、傷一つない美しい手だった。しかし、その手がその場にあるはずがないのだ。彼女はつい先程まで息をするのもやっとの体で、地面に横たわっていたのだから。
頭を上げ、怪物の腕を見上げる。
月光と星明かりしかない闇夜でも、赤星の如き彼女の輝きを見間違えるはずがない。怪物の手の中にアンナを見つけ、ウィレムは岩陰から飛び出そうとした。気配を消し隣の闇に忍んでいたイージンが、その腕を掴み、引き留める。
「何考えてんだ。死にてえのか」
「止めるなイージン。アンナが、アンナがあそこにいるんだ」
乱暴に振り払おうと力を込めるが、彼は手を離さなかった。逆に、もう片方の腕も押さえ込まれ、地面に組み敷かれてしまう。
「本当にあんな奴を相手できると思ってるのか」
イージンの声は落ち着いていた。いつもの嘲りも悪ふざけもない。身体の芯から熱を失っているような恐ろしいまでに冷静な声。ウィレムはその響きに聞き覚えがあった。コンスタンティウム宮の執務室、彼がその本性の一端を垣間見せた時と同じ響きだった。
肩が震え、足が竦んだ。全身を悪寒が包み込む。彼が良くないことを言う、それは確信と呼んで良い予感だった。
彼の言葉を聞いてはいけない。そう直感し助けを求めて、オヨンコアを探す。彼女は先程までウィレムがいた岩陰から怪物をにらみつけていた。全身総毛立ち、尖った犬歯を剥き出しにしている。人のものではない低い唸り声が、風に乗ってウィレムの耳にもとどいた。彼女もまた正気ではなくなっていた。
「調度良い機会だ。もう一度言うぜ」
耳を塞ごうにも、両手はイージンに押さえられていた。ウィレムはただ自分の予感が外れることだけを願った。
「アンナとオヨンコアは、ここに置いてけ。敵があいつらに気を取られてる間に、おいらたちは逃げるんだ」
「でも……」
「でもじゃねえ、冷静になれ。あれに勝つ方法があるってのか」
イージンの問に、改めて怪物を見る。人間離れした巨躯に、無数の腕。戦って勝つ見込みなどありはしなかった。
「それに、アンナはお前を庇ったんじゃねえか。あいつが役立たずってのだけは間違いだったな。あいつはお前を守った。その気持ちを無駄にすんじゃねえよ」
怪物の手の中でアンナは必死に抵抗していた。震える身体で重剣を構え、視線はぶれずに相手を見据える。だがそれも長くは続かなかった。彼女の瞳に恐怖の色が浮き、頭を振る。絶叫する彼女の瞳は怪物の顔の一つに釘付けになっていた。ウィレムの位置からではその顔を見ることは出来ないが、彼女を戦慄させる人物などそうはいない。恐らく、そこにはナルセスの顔があるのだ。
誰の目にも、形勢の不利は明らかだった。怪物がアンナに構っているうちに逃げるというイージンの判断は、如何にも正しいように思える。
「イージンは、僕一人の命なら守り抜けるのかい」
「そういう約束だからな」
冷たいが確かな口調。そうすることは彼のなかでは揺るがない決まり事なのだ。彼自身がそう決めた。ならば、ウィレム自身がどのような判断を下さなければならないのか、考えるまでもないことだった。
「わかったから、手を離してくれないか」
「本当に良いんだな」
「僕のやらなきゃいけないことは、わかっているから」
念を押すイージンの言葉に素っ気なく応える。
「それじゃ、手を離すぞ。そしたら、怪物とは逆方向に走れ」
そう言うと、彼は押さえていた手を放す。
無造作に起き上がったウィレムは振り返ってアンナを見た。
「ごめん」
一言呟くと、ウィレムは走り出した。
ただし、イージンの指示とは反対方向に向かって。
ウィレムは振り向かずに、イージンに叫ぶ。
「もし僕が死んだら、ガリア王の親書と僕の骨をタルタロスに届けてくれ。それで、僕を届けるっていう君の誓いも果たされるだろう」
既にウィレムの意識は前方にしか向いていない。
彼の眼前には、怪物の朝霞の色をした巨体が立ちはだかっていた。