第93話 鬼の腕
初めにその気配に気付いたのはウィレムだった。
首筋にむず痒さを覚え、続いて臍の下から泥土が這い上ってくるような感覚に襲われた。良くないものが近付いている、そんな漠然とした危機感に、ウィレムは落ち着きなく辺りを見回す。
「どうかされましたか、ご主人様」
横になったアンナを介抱しながら、オヨンコアが声を掛ける。
「少し、嫌な感じがしたんだ」
「そうですか。ワタシの耳も、鼻も、特に何も感じませんが」
そう言って、彼女は露わになった三角の耳を小刻み動かし、鼻を揺らして見せた。オヨンコアの耳や鼻は人間よりも数段敏感である。彼女が何も感じないのならば、それは何もないということだ。
そこにイージンが異を唱えた。
「わからんぜ。オヨンコアの耳でも聞こえないもんはあるだろう」
「あら、ワタシの耳にけちを付けるって言うの」
オヨンコアが眉を寄せ、イージンを睨みつける。向けられた鋭い視線に動じることもなく、彼は悪戯っぽく目を細めた。
「あんたの耳でも、死霊の鼓動までは聞けねえだろ。なんせ、死んでんだからな」
「子どもみたいなことを。詰まらないことを言うと、口は縫い付けるわよ」
「そう言いなさんな。近頃のウィレムは怪異に好かれてるからよ。万が一、その辺りを漂ってるかもしんねえぞ。ほれ、あんたの肩の所、それ、人の手じゃねえか」
「馬鹿馬鹿しい。相手してられません」
「きっと、勘違いだったんだよ。変なこと言って、ごめんね」
二人の間にウィレムが割って入り、口論は収まった。オヨンコアはそっぽを向き、イージンもにやにやと品のない笑みを浮かべて余所を向いた。毎度の事ながら、ウィレムは肩を落としてため息を吐く。話はそこで終わるはずだった。
「おい、ちょっと見てくれ。ありゃ一体全体、何なんだ」
洞窟の奥を眺めていたイージンが声を荒げる。
「今度は何さ。あんまりふざけていると、誰も相手してくれないよ」
渋々ウィレムは彼の呼ぶ方へ目を向けた。オヨンコアは返事すらしなかった。悪戯だと思ったのだろう。だが、その時に限っては、悪戯でも、冗談でもなかった。
初めに見た時、ウィレムは錯覚かと思い、目を擦った。暗闇が揺れているように見えたのだ。次に小さな羽虫でも飛んでいるのかと考えた。だが、闇の蠢動は緩やかで、慌ただしさは感じない。さらに目を凝らすと、薄ぼけた紫色の光が揺らめいているのだとわかった。
光は揺れながら、膨れては萎み、音もなく闇中を漂っている。光の尾がウィレムの瞳に残像を映し、その残像が明滅しながら幾重にも重なって、輪郭を描き出していく。現れたのは男の毛むくじゃらな腕だった。
「ありゃ、何だと思う」
「腕、かな」
「そんなのは見りゃわかるだろ。何の腕かって聞いてんだよ」
無意識に二人は声を潜めていた。
腕はまだかなり遠くにあるようだが、正体のわからないものに警戒心は強まる。自分たちに危害を加えるものなのか、そうではないのか、慎重に見極めなければならない。
「僕、オヨンコアにも話してくるよ。イージンはあれを見張っていて」
ウィレムは静かに腰を上げ、すり足でオヨンコアに歩み寄った。腕から目を離したのはわずか数秒といったところだろう。
「逃げるぞ。ありゃ、やばい感じだ」
イージンの声に振り向くと、彼は既にウィレムの横を走り過ぎようとしていた。彼の後方で、腕が地面を這いながら、恐ろしい速さで迫ってくるのが見えた。五本の指が虫の脚のように巧みに動いている。
「オヨンコア、アンナを連れて外に出て」
走りながら叫ぶ。男たちの態度から、彼女は素早く事態の急を察すると、アンナの肩を抱えて駆け出した。引きずられた重剣の鞘が小石に当たり、こつこつと音を立てる。追い付いたウィレムもアンナに肩を貸す。後方では腕が直ぐそこまで迫っていた。アンナの剣は重かったが、はずしている余裕はなさそうだった。
ウィレムが星空の下に飛び出すのとほぼ同時に、腕が洞窟の入口に手を掛けた。近くの岩陰に身を潜め、相手の様子をうかがう。別の岩陰に松明を持ったイージンの姿があった。
腕がゆっくりと洞窟から姿を現す。肩まで出た所で反対の腕が現れ、二本の腕の間から、人の頭が滑り出た。一見しただけならば、ごく普通の人間の顔に見える。だが、奇妙なことに、その顔は頭の四面に附いていた。頭上には中小の顔が無数に連なり、各々の目玉を絶え間なく動かして辺り一帯をうかがっている。
瞳の一つと視線が交わり、ウィレムは慌てて身を隠した。見覚えのある顔だった。痩けた頬、窪んだ眼でウィレムをじっと見つめていた。骨と皮だけになって、苦しみ抜いたその顔を忘れられるはずがない。
見間違いであって欲しい、そう思い、震える身体を抑えて再度のぞく。怪物は既に右脚まで洞窟の外に出し、残った左脚を引き抜こうとしていた。
改めてその大きさに驚き、息を呑む。ウィレムの頭が怪物の膝と同じくらいの高さだろうか。大樹の幹のような脚、岩のような胸と腹、太く長い腕は肩の付け根辺りで枝分かれし、無数に伸びていた。腕の本数を数えようとすると、その度に限りなく増え、数えることが出来ない。そして、四方を睨む凶相の上には無数の人面が乗っているのだ。顔の群れのなかに、ウィレムは亡き父の顔を見出した。父だけではない。レオポルドに、アルベール、マクシミリアン、ギョームの顔までが並んでいる。
狼狽え、一歩後退る。足に当たった小石が他の石にぶつかってからからと音を鳴らす。怪物の目が一斉に音のした方を向き、岩陰のウィレムたちを捉えた。
幾千の瞳に射貫かれ、ウィレムはその場から動けなくなった。自分の脈動が激しく耳に響いていた。