第92話 決意の出立
思うままに生きるだけ。
その晩、ウィレムはイージンの言葉を何度も反芻した。そのような生き方は、一度も、誰にも教わったことはなかった。父は領主の息子としてあるべき生き方を望んだ。師は天主様を前にして恥じない生き方をするよう諭した。他者から望まれるままの生き方に疑問を持ったことすらなかった。
改めて自分の胸中に問いかける。
ウィレム・ファン・フランデレンは、どうしたいのか、どう生きたいのかと。
ルイにタルタロス行きを命じられた時、不安から気後れこそしたが、拒もうという思いは一片も湧いてこなかった。
その時に浮かんだ不安は保身によるものではなかった。自分が務めを果たすことが出来るのか、そのことだけが気掛かりだったのだ。務めを承けることは、命令を言い渡された時から決めていた。
相手がガリア王で、自分がガリアの領主だから従ったのか。それも違う気がした。相手がルイだからこそ、ウィレムは了承したように思える。
身を焼くほどに焦がれた男が、タルタロスに行って欲しいと言った。その時の、夜空の星が眼前に落ちてきたような輝きを忘れることはないだろう。その輝きを追い続け、追い着けないとわかっても、脚を止めることが出来なかった。近付くためならば、どんな試練にも耐えると誓った。ならば、一も二もなく、やることは決まっている。
思索の先で、ウィレムは自分のなかにルイとは別の輝きがあることに気付く。
それは美しい光帯を発し、燃えるように赤く光っていた。触れた指先から炎に包まれてしまいそうな、熱く激しい深紅の玉。夏に中天に昇る真っ赤な太陽。届かないとわかっていても、目を離すことが出来なかった魅惑の蜃気楼。
一度は諦めようと遠ざけたこともあった。修道に身を置き、神に仕えれば忘れられると思ったが、無理だった。旅立つ前も、身を案じて引き離そうとした。それでも今、彼女はウィレムのすぐ側にいる。
彼女と共にありたい、それは魂に刻まれた終生の性なのだと思えた。
ウィレムは跳ね起きた。
全てを思い出した。そして、迷いも消えた。
「イージン、出発の準備をして。すぐにここを出よう」
寝室ではイージンが二人の女を侍らせ、その肢体を弄んでいた。三人とも生の肌を晒し、甘い香が立ち篭めていた。
「随分と急だな。何かあったか」
「思うままに生きる。それだけだよ」
短い言葉を交わすと、二人は手早く仕度を済ませ、荷物を担ぐ。
慌てたのは女たちだった。二人の袖を引いて哀願する。
「こんな霧深い夜にどこへ行かれるのです。晴れるまでここに入らして下さい」
「さあ、寝床に戻りましょう。身体を重ねて、眠りましょう」
妖艶な仕草で袖から腕へと手を絡めてくる。だが、イージンはその手をあっさりと断ち切った。
「なんとご無体な。先程まであれほど愛し合ったではありませんか」
それでも尚引き留めようとする女たちに、振り返ったイージンが笑顔を呉れた。彼得意の不快感を催させる冷笑を。
「おいらは嘘吐きでな。口以外からも嘘が出る。誰が女になど溺れるものかよ」
満面の嘲りを向けられた女たちは低く重い唸り声を上げた。そのまま彼女たちの身体から色が失せ、薄紫の塊になったかと思うと、瞬く間に弾けて消えた。
我に返ると、二人は洞窟のなかに立ち尽くしていた。女たちどころか、館までが影も形もなくなっていた。闇に慣れぬ目で、輪郭しかわからぬ互いの顔を見合わせる。
「今の、何だったんだろう」
「お前、本当に亡霊か何かに憑かれてんじゃねえの」
「笑えない冗談は止してくれよ」
ウィレムの口から強張った笑い声がもれる。イージンは笑わなかった。
少し離れた場所に赤い光を見つけ、ひとまずその光を目指すことにした。だが、光は見えていても、足下は暗い。片手を壁に添えながら進むが、時に小石に躓き、時に相手の脚を踏みつける。暗中模索で進み続け、ようやく炎との距離が掴めるようになった頃、岩壁に人影が映し出されていることに気が付いた。
なだらかな肩の稜線と、そこにかかる真っ直ぐな髪。そして、小さな頭の上に乗る二つの三角形がウィレムたちの足音に反応し、ぴくりと動いた。
「オヨンコアかい?」
声を掛けると壁の人影が揺らめき、松明を掲げて駆け寄ってきた。
「男二人でどこへ行ってらしたんですか。ご主人様」
顔を合わせるなり厳しく問い詰められ、ウィレムは目を白黒させる。
「もう夜ですよ。この大変な時に、三時近くも何をやってらしたのやら」
「三時――」
ウィレムとイージンは思わず声を揃えた。そんな二人をオヨンコアが、呆れたように半眼でねめつける。
「揃って阿呆な声を出さないでください。アンナが起きてしまいます」
そういうと、彼女は二人に背を向け元いた場所へと戻って行った。ウィレムがイージンの方を見ると、彼のきつね顔もぎこちなく引き攣っていた。
「行くか」
少し間の抜けた彼の言葉に同意し、ウィレムはオヨンコアの後を追った。
後方の暗闇に蠢くぼやけた光には、二人とも気が付かなかった。