第91話 晴れ待ちの宿り
ウィレムが館の居間から外を眺めると、薄紫の霧が辺り一面を包んでいた。雪を被った山頂も、岩を剥き出しにした山道も、青空さえ、視界に入らない。生き物の鳴き声も、風の吹く音も聞こえず、世界が色を失い、静止しているような錯覚に襲われる。
「随分とお早いご起床だな」
静寂を裂いて居間に入ってきたイージンはだらしなく上衣をはだけさせていた。眠そうに欠伸をする彼の胸や腕に赤い吸い跡を認め、ウィレムは目をそらす。それに気付いたイージンが三日月型の目をさらに細めて、彼に近寄っていく。
「なんでそっぽ向くんだよ。そっちに面白い物でもあるのか」
敢えて赤くなった部分を見せるように、ウィレムの正面に回り込む。ウィレムは顔をしかめると、さらに別の方向を向いた。イージンの身体から、彼の体臭とは違う、甘い香りが仄かに漂っている。
「僕、君のそういう所が嫌いだ」
「そんな邪険にするなよ。おいらは女共の誘いに乗ってるだけだぜ」
イージンは悪びれることもなく、上衣を羽織り直した。
「僕が嫌なのは、そうやって行為の跡を見せびらかしてくる所だよ」
「悔しかったら、お前も女を抱けば良いじゃねえか」
そう返されると、ウィレムは言い淀んでしまう。
スルヤと別れ、その館を訪れて以来、ウィレムには一つ悩みがあった。夜になり、宛がわれた寝床に向かうと、数人の女性が一糸まとわぬ姿で彼を待っているのだ。女性たちは扇情的に身体をくねらせながら、濡れた瞳で彼を誘う。怪しく絡みつく視線に身体の表は熱を持つのだが、背筋の付け根の辺りには悪寒が走る。居たたまれなくなるウィレムは逃げるように部屋を出て、毎晩居間の片隅で眠っていた。
「さてはお前、女を知らねえな。一度抱いてみれば、それなりに良いもんだぜ」
イージンは軽薄な嫌らしさを顔に張り付ける。その表情がウィレムの心を逆撫でることを、彼は十分に心得ていた。
「そういうのは、何か嫌なんだよ」
イージンに聞こえないよう呟いた。負け惜しみと受け取られるのは癪に障る。
ウィレムとて、女性の身体に興味はある。腹の奥から湧き上がる欲望に、身を委ねようと思ったこともあった。だが、最後の最後で彼を思い留まらせるものがある。胸中に穿たれた楔のように、ウィレムの理性をつなぎ止めるもの。その正体がわからない。わだかまりに思いを馳せると、頭に霞がかかり、思考がまとまらないのだ。大切なことを忘れている気がするのだが、どれだけ考えても、そのことを思い出すことが出来なかった。
頭を下げ黙り込むウィレムをイージンはつまらなそうに一笑すると、霧が立ちこめる窓の外に目をやった。
「今日も駄目そうだな。いつになったこの霧は消えるんだ」
「僕らがここに来て、もう三日。そろそろ晴れてほしいよ」
「これなら、爺さんの言う通りにすれば良かったんじゃねえか」
「それを言うなよ。僕だって出来ることなら、スルヤ殿と行きたかったさ」
そう言いながらも、何故その館を訪れたのか、ウィレムは思い出すことが出来なかった。何か急を要する事柄があったような気がしたが、そのことに意識が向かなかった。
「まあ良い。飯も酒も勝手に出る。女もいる。ここは待つのに打って付けだ」
開き直っているのか、イージンは館での暮らしを楽しんでいるように見える。一方のウィレムは手持ち無沙汰を持て余し、漠然とした焦燥感に苛まれていた。
イージンの言葉通り、館のなかは過ごしやすい。水や食べ物は頼めば幾らでも出てきたし、山中だというのに温かく、召使いも美女揃いである。本来ならば、いつまででも留まりたい場所だった。だが、ウィレムの頭の隅で出立を急き立てる気持ちは尽きない。
「僕は、ここを出るべきなのだろうか」
無意識に口が開き、声が出ていた。
「そりゃ、どういう意味だ」
怪訝そうにイージンが問う。珍しく表情が固かった。
「君が言ったんじゃないか。ここは良い所だって」
「あのなあ、おいらは、お前を無事にタルタロスまで届けなきゃならんのだぜ」
呆れ顔で息を吐く。自分は一向に出発する意欲を見せないくせに、ウィレムが留まると言うと否定をする。おかしな男である。
「イージンは、なんでそんなに約束事にこだわるんだい。そんなこと気にしないような顔してさ」
不意に気になり、その場の勢いに任せて尋ねてみた。イージンは一瞬瞼を揺すり、頬をひくつかせる。
「そんなこと聞いて、どうすんだ」
「いや、どうということはないんだけど」
声が幾らか低かった。機嫌を損ねたのとは違う、相手の意図を探るような、警戒と不審の入り混じる響き。その声に怯んだウィレムは、慌てて誤魔化しを言う。
イージンはたじろぐ彼の姿を見て、すぐに緊張を解いた。
「おいらの話を聞いたって、参考にはならんだろうぜ。お前の悩みは、お前のもんだからな」
「そんなんじゃないよ」
「スジャータ嬢ちゃんに引き留められてから、うじうじ考えてたんだろう。わかりやすいんだよ。この悩み下手め」
言い当てられ返す言葉もない。恥ずかしさに背中が曲がり、身体が縮まる。
「おいらが約束事を大事にするのはな、自分以外、誰も信じてねえからさ」
ため息と嘲笑の混じった、乾いているのにどこか穏やか口調だった。例えるなら、世話の焼ける弟分を、嫌がりながらも面倒見る兄貴分といったところだろうか。
「なんでそれが約束を守ることに通じるのさ」
「約束ってのはな、他人と結ぶように見えるがそうじゃねえ。自分自身に対する誓いなんだよ。相手がどうこうは二の次だ。相手の条件を呑むかどうか、それを決めるのはおいらだ。約束を破るってえのは、とどのつまり、それを決めた自分への裏切りだぜ。他の誰も信じてねえおいらが、自分まで裏切って、どこに寄る辺があるってんだ」
話しながら、珍しくイージンの声に熱がこもる。
「おいらは、おいらの思うままに生きる。それだけだ」
「思うままに生きる……」
その言葉をウィレムは繰り返し声に出した。とても簡単な言葉だったが、初めて聞いた言葉だった。
ぼんやりと復唱するウィレムの前に、嘲弄としたイージンの顔がぬるりと現れる。
「いいか、おいらは嘘吐きだからな。今の言葉も信用するなよ」
その表情が、不自然なほどに非の打ち所のない嘲笑で、ウィレムは込み上げる笑いを必死に堪えた。