第90話 二者択一
顔を上げると青々とした山脈が視界いっぱいに覆い被さり、雲のない空はいつもよりも狭い。正面に目を転じれば、岩と砂利ばかりで、緑よりも茶と黒が視界の大部分を占めている。そのような場所でも人が通る限り道はあるもので、峻険な山並みを両側に見ながら、ウィレム一行はヒマーラヤを進んでいた。
先頭を行くスルヤ翁は歳を感じさせない強靱な足腰で、滞ることなく確実に歩を進める。彼に遅れを取るまいと、ウィレムも懸命に脚を前に運んだ。ただ、それまで牛の背に乗せていた荷を背負って歩くのは、想像以上の負担だった。外気は冷たく、吐く息は白く濁るのに、ひっきりなしに汗が出る。時折、足裏に鈍い痺れが襲い、その都度、ウィレムは立ち止まった。
予想外だったのはイージンの健脚ぶりである。ウィレムと同じだけの荷を追いながら山路を苦にせず、スルヤと変わらぬ速さで進むのだ。オヨンコアが小柄な体躯に反して良く歩くことは知っていたが、彼の脚はそれ以上だった。
一行のなかで唯一遅れがちになるのがアンナである。未だに体調が戻らないのか足下は覚束ず、石に足を取られて倒れそうになる。その度にオヨンコアが彼女の元まで戻り、肩を貸して立ち上がるのだった。
弱り切ったアンナを見るのは辛い。ウィレムが憧れ、追い付こうと必死になっていた者が、よろめきながら後ろを歩いている。優越感など欠片も湧かず、それでいて、一緒にいられないと言われて身では寄り添い方もわからない。彼女が一行に加わっているのは、オヨンコアが彼女をつなぎ止めているからであり、他に行き場がないからだ。そんなことを考える自分の卑屈さがどこまでも嫌になる。
「ほれ、あそこに見えるのが、カイラース山だ」
スルヤの案内で進むこと五日、それまでで最も険しい道程を超えた先に、ウィレムは白黒斑の天幕を見た。それが目的のカイラース山であることに気付いたのは、スルヤに指摘された後だった。
これまで横目で眺めてきた槍のような山々とは異なり、鈍角の屋根が輻射状になだらかな傾斜を描く。山は天から降ろされた巨大な階段のように、その場に鎮座していた。
山を見ただけで鼓動が高鳴り、胸がざわついた。目的地を目にしたからか、巨大なものに心奪われたためか、ウィレムは高揚していた。様々な気掛かりが一瞬消え、身体は旅路で疲労していたが、どこからが活力が湧いてくる。
「皆、凄いよ。見てみなよ」
堪らず後方に声を掛ける。しかし、振り向いたウィレムの顔はたちまち青くなった。狭い道の傍らにアンナが倒れ込んでいたのだ。
慌てて駆け寄り、彼女の手を取る。その手は驚くほど冷たかった。顔は赤黒く、呼吸も荒い。声を掛け、名前を呼んでも、彼女は小さくうなずくばかりで、声は返ってこなかった。
ウィレムたちが追ってこないことに気付き、スルヤが戻ってきた。
「なにをしている。先を急ぐぞ」
「少し待って下さい。アンナの様子がおかしいのです」
スルヤは彼女を見たが、特段驚く様子はない。
「あと一時ほど進めば村がある。そこまで行ってから休むとしよう」
平盤な声で先を急かす。ウィレムは再度アンナの顔をのぞき込んだ。息は絶え絶えになり、瞼は半分以上落ちている。手は小刻みに震え、とても一時歩けるようには見えなかった。
「ここで休んでいきましょう」
「駄目だ。じき霧が出て進めなくなる。そのまま夜になれば、皆、命を失うぞ」
全員の命が掛かっていると言われれば、ウィレムも退かざるを得ない。だが、アンナをこれ以上歩かせることも出来そうになかった。
どちらも選べず、行き詰まったウィレムが辺りを見回すと、近くに石造りの建物が見えた。場にそぐわない巨大な館は神殿のような荘厳な造りである。
「一旦あそこに避難しましょう。それで霧をやり過ごすのです。もし日が落ちてしまったら、泊めてもらえば良いではないですか」
「はて、あのような建物、儂は知らんぞ」
スルヤは首を傾げたが、既にウィレムはアンナを抱き上げ、館へ向かおうとしていた。
「新しく建てられたのでしょう。調度お誂え向きではないですか」
「いや、やはり怪しい。ここは人の住むような所ではない」
老人の頑なな態度にウィレムの顔が曇る。他の何よりもアンナを休ませることを優先したかった。
「ここは専門家の言うことを聞いとけよ」
イージンまでがスルヤの言い分に賛同した。
ウィレムは腕のなかのアンナを見た。
アンナはずぶ濡れの子猫のように震えている。そんな彼女の唇が微かに上下し、風鳴りのような声がウィレムの耳に辛うじて届いた。
「私は、構いません。先を、急いでください」
掠れて消えそうな彼女の声がウィレムの決断を促す。だが皮肉なことに、彼の心は彼女の意思に逆らうことを決めていた。
「僕はアンナに無理をさせたくない。あそこで休ませてもらおう」
そう言うと、再び建物の方へ歩き出す。
「勝手をするなという約束だぞ」
「申し訳ありませんが、その約束は守れません」
振り返って答えるウィレムをスルヤは不動で見つめる。
「ならば道案内はここまでだ。幸い目的地も直ぐそこに見える。あとは自分たちの脚を頼りに行くと良い」
そう言い残すとスルヤはすぐに歩き出した。
躊躇いがちに彼を見送りながら、オヨンコアとイージンが寄ってくる。
「あの方、最後に『旅の無事を祈っている』と仰っていましたよ」
オヨンコアから伝えられた言葉に、心臓が固まった。彼に対して済まないという思いは確かにあったが、アンナの無事には代えられない。
「本当に良かったのかよ」
イージンの声には棘があった。
「イージンこそ、僕らと来て良かったのかい」
「そういう約束だからな。まったく、とんだ貧乏くじだ」
への字に口を曲げる彼を見て、その言葉は本音なのだろうと感じた。
カイラース山の頂が眼前に見えることを確認すると、ウィレムはアンナを抱えたまま石造りの館に向かって駆け出した。