第89話 案内交渉
「お主ら、再生族というものを知っているか」
「何ですか、その再生族というのは」
耳慣れない言葉にウィレムは素直に聞き返した。スルヤは落胆するでも、馬鹿にするでもなく、ただただウィレムの言葉を確認するように、ゆっくりとうなずいた。
「再生族とは、平地の民が自分たちを呼ぶ時の呼び名だ。彼らのうち、バラモン、武人、庶民の三身分のことを、そう呼ぶのだそうだ」
ウィレムの頭が、聞き覚えのある言葉に反応する。記憶が正しければ、バラモンであるモハンムーラがスジャータのことを「ヴァイシャ」と呼んでいたはずである。そして、ウィレムが知る二つの身分以外に、「クシャトリヤ」という身分があることになる。この地を素朴な農耕社会だと思っていたウィレムにとって、無視できない言葉だった。
「その『クシャトリヤ』という人たちは、どこにいるんですか。僕は今まであったことがないのですが」
「話の腰を折るでない。クシャトリヤなら、街に出れば、ごまんと居るわ」
スルヤは語気を少しばかり強める。それでも声に怒鳴るような響きはなく、なおも静けさを湛えていた。むしろそのことが、重々しい迫力を醸し出し、怯んだウィレムは、以後、彼の話が終わるまで一切口を挟まなかった。
「再生族の三身分だけが洗礼を受け、神の恩恵に預かれると彼らは言う。彼らは洗礼の証として、聖紐を肌身離さず身に着けているのだそうだ。そして、隷属民たるシュードラは神の恩恵を受けることが出来ん」
「あんたらはその『シュードラ』の身分ってことだな」
イージンが透かさず合いの手を打つ。その顔には当然の如く嘲笑が浮いていた。
「そうではない。彼らは平地の民。儂らは山の民だ。元より別の人間。生き方も違えば、神の祀り方も違う。儂らの神はこの雄大な山々だ。彼らの神が、儂らの祈りを聞き届けるなど、あろうはずがない」
「だが、奴らもヒマーラヤを聖山と崇めていたぞ。奴らの聖仙とやらも、この先の山で修行してんだろう」
ウィレムが黙っても、イージンが黙ることはない。どのような相手に対しても臆することはなく、程度の差こそあれ、態度は一様に不躾である。それがウィレムを苛立たせる一方で、少しばかり羨ましくもあった。兄のレオポルドに通じるものを感じるのだ。
問われたスルヤはしばらくの間押し黙った。言葉を探しているのか、口をもごつかせながら視線を床に這わせる。そして、ゆっくりと語り出した。
「彼らは豊かだ。その豊かさに寄って世界を広げ、儂らの住処も自らの世界に取り込んだ。彼らは自分たちとは異なるものを『アヴァルナ』と呼んで忌み嫌う。儂らが狩りをして山の生き物を殺すことが、彼らには穢れて見えるようだ」
スルヤはまるで他人事のように粛々と話した。
「そんなの、あんまりよ」
それまで大人しく聞いていたオヨンコアが低く唸る。唇の間から尖った犬歯がのぞき、鼻の付け根がくしゃりと潰れていた。可憐さのなかに野生の香りを漂わせる、恐ろしくも美しい表情だった。
「お嬢さん、そう熱りなさるな。これはあくまで儂らの問題。問われたから話したが、主らとの交渉とは関わりのないことだ。事情があるのはお互い様よ」
「なるほど、良く承知してるじゃねえか。交渉事で大切なのは、お互いの出せる条件だけだ。その背景を聞いたところで、何の足しにもなりゃしねえ」
「そう言うことだ。お主の言った通り、理由など些末なことよ」
そこで身の上話は終わり、道案内をめぐる交渉が再開する。黙っていたウィレムもイージンに促され、ようやく口を開いた。
「やはり、牛を持って行かれるのは困ります。荷物が運べなくなってしまう。食糧の一部を譲るので勘弁願えないでしょうか」
「それは無理な相談だ。山越えは命に関わる。万が一、儂が戻らぬ時、牛がいれば、息子たちに働き手を残せるからな」
「失敗を前提に話をしないでください。貴方に頼めば、必ずカイラース山へたどり着けるのではないのですか?」
「山に絶対はない」
ウィレムは食い下がったが、スルヤも退かない。山越えの危険性を見誤っていた分だけ、ウィレムにとっては分の悪い交渉となった。
途中、イージンが両者を取り持ち、妥協点を探った。一度交渉に入ると、彼がウィレムを一方的に味方することはなかった。敵ではないが、仲間でもない。あくまで、タルタロスまでの世話役に過ぎないのだと、改めて思い知らされた。彼にとって、交渉がまとまること自体が最大の目的なのである。
話し合いは続き、全てがまとまる頃には日が西の峰に掛かっていた。
「それじゃあ、再度、確認するぞ。ウィレムは牛を爺さんに預ける。食糧は徒で持てる分だけ持って、残りは爺さんへの支払いにまわす。爺さんはカイラース山までの道と帰路の案内をする。無事戻って来れれば、牛は返してもらう。帰って来れなきゃ、牛は爺さんの家族のもんだ。両者この条件で構わねえな」
ウィレムは深くうなずいた。しかし、スルヤが首を縦に振ろうとしない。
「文句があるのか、爺さん」
「いや、それで構わんよ。だが、最後に一つ加えて欲しいことがある」
交渉は済んだと思っていたウィレムは、スルヤの言葉に眉を上げた。存分に話し合ったはずたが、まだ足りないというのだろうか。心を静め、一言も聞き逃さぬよう、耳を澄ます。
「山に入ったなら、儂の言葉には必ず従ってもらう。山での勝手は死を招くぞ」
老人はするりと抜いた言葉を白刃のように突き付けた。嘘でも、大袈裟でもなく、その言葉が紛れのない真実であることを、耳にした全ての者が理解した。
ウィレムは少し考えてからうなずくと右手を出した。
「交渉成立ですね」
スルヤは黙ってその手を取った。