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第88話 山の翁

 老人は口を強く結び、節くれ立った腕を胸の前で組んで、微動だにしなかった。一本一本が針のように突き出た太い眉の間に深い皺が三本走り、歳の割りには狭い額を左右に分けている。乱れた白頭と浅黒い肌の対比が鮮やかで、その姿が放たれる威厳は、彼こそが聖仙(リシ)ではないのかとさえ思わせる。彼の首を縦に振らせるのは一筋縄ではいかないとウィレムは直感した。



「それで、主ら、何用が合って(わし)を訪ねた」



 眉の下に隠れた(まぶた)を半分ほど持ち上げ、スルヤ翁は静かに口を開いた。抑揚に乏しく、心意を量りかねる口調。唇をほとんど離さず、口内で音を()ねるような話し方は、どこか突っ慳貪(つっけんどん)な印象を(いだ)かせる。


 ウィレムは慎重に言葉を選びながら、カイラース山までの道案内を頼みたい旨を願い出た。老人は話を聞いているのかいないのか、表情一つ変えることはなかった。皺の一つ、毛の一本さえ動かない。言葉を一つ間違えるだけで彼の機嫌を損ねてしまいそうで、ウィレムは何度も固唾(かたず)を呑んだ。


 話が終わってもスルヤは直ぐに答えることはなく、再び瞼を閉じると黙り込んでしまった。



「この爺さん、寝ちまったんじゃねえだろうな」



 老人に届かぬように小声で(ささや)くイージンに、ウィレムとオヨンコアが口先に人差し指を立てて黙るよう促す。彼にとっても老人が頼みの綱であるはずなのだが、そんなことを微塵も感じさせない態度には、肝を冷やした。

 イージンの声が聞こえていたのかは定かでないが、直後にスルヤは口を開いた。何の前触れもなかったため、ウィレムたちは揃って肩を強張らせた。



「用向きはわかった。しかし、何故、カイラースなどに行きたがる」

「聖仙サーキヤ様に僕らの行く道を請いたいと思っています」

「ふむ、聖仙(もう)でか。殊勝な心掛けだな。だが、本当にそれは必要なことか」

「僕たちは御神託に従ってここまで来ました。他に道を知りません」

「信じていない神の言葉に身を委ねるか。正気の沙汰ではないな」



 スルヤの言葉に身体が固まる。気の利いた返しをしたかったが、図星を突かれて返す言葉もない。実際、他に手立てがあるのならば、人に犠牲を強いる神の言葉など聞く気はなかった。ウィレムが信じるとすれば、それは異教の蛮神ではなく、彼らに神託を与えるために身を尽くしたモハンムーラの存在だった。



「この際、理由なんてどうでも良いだろう。それに、空腹の絶頂で食い物を与えてくれるなら、悪魔だって神さんだ。違うかい、爺さん」



 イージンの不躾な物言いにスルヤは黒目だけを動かして彼を見た。だが、それ以上の態度を示すことはなく、再びゆっくりと下顎をくねらせ、聞き取りにくい声で答えを返した。



「そうだな。山は恵みを与えるが、時に災厄をもたらすこともある。それを神だ悪魔だというのは人の事情だ。救ってくれるならば、相手が何者であろうと『神』ということだな」

「あんた、おいらたちの『神』さんになってくれる気はあるのかい」

「儂は人だ。だから、ただで手を貸すことはない」



 思わずウィレムは立ち上がった。低い天井の梁が頭を掠める。アンナとオヨンコアが服の裾を掴まなければ、危うく頭頂部を強打するところだった。



「では、条件次第で案内役を引き受けて頂けるということですか」



 怪しい雲行きが一転して、一気に交渉まで漕ぎ着けたのである。彼の声は狭い部屋のなかを走り抜け、窓の外へと消えた。



「バカ、声がでかいんだよ」



 イージンに小突かれても苦にはならない。叩かれても顔をしかめないウィレムに、イージンの方が気味悪がって後退(あとずさ)る。



「まだ引き受けるとは言っとらん。案内の引き換えに、お主は何を差し出すね」



 大声にも動揺を見せず、スルヤは淡々と話を進める。

 一方でウィレムは考え込んでしまった。老人に渡せる物が彼の手元には何も無い。コンスタンティウムで集めた土産は吊り籠から落ちる時に全て失ってしまった。持ち物といえば、途中の村で分けてもらった食糧が幾らかあるだけである。

 腕組みをして黙り込むウィレムを尻目に、スルヤはおもむろに立ち上がると、窓の方へと歩いて行った。力感なく床の上を滑るように進み、足音一つ鳴らすことはない。最初、ウィレムは彼が席を立ったことにさえ気付かなかった。



「あれをくれるなら、案内を引き受けても構わんぞ」



 裾野(すその)を見下ろす窓際に立ち、スルヤが外を指差す。指が指し示す先では、玄関前につながれた牛が道端の草に首を伸ばしていた。



「あれは困ります。あの牛がいないと食べ物を運ぶことができません」

「ならば、その荷物も置いていけ。食べ物ならば、こちらは幾らあっても困らん」

「がめつ過ぎやしねえか。ここの連中が食い物に困ってねえことは知ってんだぜ」



 要求を重ねる老人にイージンが透かさず食ってかかった。



「食べるに困っていないのは、下の奴らだけだ」

「神さんにお祈りすれば、何でも叶えてくれんだろう。豊作続きじゃねえのかよ」

「それは違うぞ、若造」

「どう違うって? 旅人からなけなしの食い物を奪うほど飢えてるってのかい」



 さらに畳み掛けるイージン。スルヤはイージンとウィレムを鋭くねめつけると、先程よりも深い息を一つ吐く。そして、老人は彼らの村の事情を語りはじめた。

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