表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
88/159

第87話 山村の日常

 岩穴から()い出してしばらく行くと、ウィレムたちは小さな村に差し掛かった。

 村はヒマーラヤの斜面に張り付くようにしてひっそりとたたずんでいた。中央の道は段々になっており、登っていくと道の両側に石積みの家が(まば)らに並んでいる。高さのない屋根の端に先程まで降っていた雨が溜まり、陽光を反射して、村全体が輝いているように見えた。

 日が射すと山間(やまあい)でも暑くなる。雨を含んだ地面から濡れた空気が立ち昇り、呼吸をすると喉が詰まった。口を開けて舌を出し、犬がするようにして息を吐いた。



「辛そうだね。少し休んでいきなよ、旅人さん」



 斜め上方からの声に顎を上げると、道端にしゃがみ込む女性の姿が目に入った。彼女は脚の間に大きなたらいを置き、そのなかに両手を浸していた。水を並々に注いだたらいのなかで、衣服がくるくると踊る。あふれた水がたらいの縁から漏れ出て、道端を伝ってウィレムの足下まで垂れてきた。

 ウィレムたちは申し出を受け入れ、彼女の隣に腰を下ろした。



「熱っ」



 女性が出したヤクの乳を(すす)り、アンナが舌を出す。白濁の汁からは湯気が立ち、見るからに熱そうだったが、彼女は躊躇せずに口をつけた。彼女は未だにまともな食事を出来ていない。口に出来そうなものがあると身体が勝手に動いてしまうのだろう。むしろ、栄養を取りたいと身体が欲する分だけ、回復したと言えるかもしれない。



「せっかちな子だねえ。そんなに焦って飲もうとするからさ」



 女性は褐色の顔に白い歯を見せて笑った。笑うと小鼻の下に(しわ)が寄り、なんとも親しみを覚える表情になる。

 ウィレムも乳を少量だけ吸い込んで、口に含んだ。雑味はあるが、優しい甘さが際立ち、それだけで筋張っていた背中が(ほぐ)れていく。



「あんたたち、こんな所まで何しに来たんだい」



 女性は話しながらも、残りの洗濯物を(すす)ぎ続ける。濯ぎ終わった衣類は別のたらいに小さな山をつくっていた。どこに行っても変わらない、長閑(のどか)な日常の風景に、胸中の濁りが少しばかり晴れていく。



「僕らはカイラース山へ向かう道中なんです」

「随分と遠くまで行くんだねえ。ヒマーラヤの反対側じゃないか」

「それ、本当ですか」



 驚いて聞き返すと彼女は首を縦に振った。そして、目を見開くウィレムの顔を見つめ返し、「知らなかったのかい」と不思議そうに尋ねた。


 ウィレムたちはバクティの神託に従って進んでいるに過ぎなかった。目的地の具体的な場所も知らなければ、そこまでの道程も知らない。道々で出会った人々に尋ねながら、ようやく山脈までたどり着いたのだ。道の先がどれほど険しいかは、実際に目にするまでわからなかった。


 ウィレムは改めて頭を上げた。目の前にそびえる山々は、夏だというのにその頂を白く染め上げ、天を突かんばかりに屹立(きつりつ)している。穂先のような鋭い峰が横一線に連なり、あたかも音に聞く古代エトリリアの密集隊形(ファランクス)のように、見上げるものを威圧していた。

 あの山を越えるのかと思うと、ウィレムの顔から色が失せていく。頬が引き()り、半分開いた口からは無意識に重苦しい吐息が漏れた。

 その様子を眺めていたイージンが、いつもの人をおちょくるような口調で会話に割り込む。



「うちにはこんな青瓢箪(あおびょうたん)や可愛らしい女共もいるんだ。もっと楽にカイラースに登れる道はねえもんかな、姉さん」

「私らは、女子どもでも山越えくらいするんだけどねえ……」



 そう言って、彼女はウィレムに目をやり、続け様にアンナに目をやった。恐らく彼女の目から見て、山越えに耐え得ないと思われたのだろう。未だ蒼白な肌をさらすアンナはともかく、自分までが足手まといに数えられたのは多少なりとも不本意だった。

 それほど頼りなく見えるのかと、試しに握り拳をつくり、膨れあがった自分の腕を眺める。手首より先は良く日に焼けていたが、普段袖のなかに隠れている腕は、先程の乳のように白かった。その腕を見ると情けなくなり、再びため息が出た。



「どうしても行くってんなら、道案内を雇ったらどうだい。どのみち、あんたらだけじゃ、峠の越え方もわからないだろう」

「案内の出来る人がいるんですか」

「あんたらみたいな人が偶に来るからね。案内役の爺さんがいるんだ」



 たちまちウィレムの顔に血の気が戻る。

 考えてみれば、子どもでも行き来できる道なのである。見た目ほど険しくはないのかもしれない。案内役さえいれば、それほど苦労なく越えられる山なのだろう。そんな楽観が胸中に湧く。これまでの旅路の経験も、ウィレムに自分たちならば大丈夫だという危うい過信を与えていた。



「明日、爺さんに紹介してやるよ。今日はうちに泊まっていきな」



 その日の寝床まで確保し、ウィレムは心底喜んだ。その地に来て以来、先行きは常に闇のなかだったので、例え仮の目標だったとしても、明確な道筋が見えたことに気持ちは緩んだ。久方振りに不安なく眠れそうな気がした。

 女性は浮かれるウィレムを眺めていたが、最後にわざとらしく重い口調で付け加えた。



「ただし、スルヤ爺さんのいうことは絶対に聞き分けなくちゃいけないよ。山で勝手なことをする奴は、命が幾つあっても足りないからね」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ