第86話 雨宿り
白い冠を頂く急峻な山々が目の前にそびえ、久方振りの朝日が尾根の上に顔を出す。山道の周りは赤い岩肌がむき出しになり、数日前までの青々とした風景から一変していた。振り返ると、遙か後方に白雲が高く上がり、平地の村々に恵みの雨を降らせていた。
ウィレム一行はナラーヤナの村を出た後、しばらく西進し、ガンガー川の畔にたどり着いた。そこから川に沿って、北上を続けている。
村を出る前、バクティはウィレムたちの旅立ちに備えて託宣を受けてくれていた。彼女の本意ではなかったのだろうが、原人解体の儀式にその身を捧げたモハンムーラとの最後の約束である。それは、父親を敬愛する彼女にとって、無視できないものだったのだろう。
神託によると、旅を進めるならば、ガンガーの流れを遡り、その生まれし所、天を支えるヒマーラヤに抱かれしカイラース山に登るよう告げられていた。そこで聖仙シャーキヤを訪ねれば、事は万事うまく運ぶということだ。
「本当に頼りにしても良いもんかねえ」
イージンはそう言って、神託を少しも信じようとしなかった。だが、かといって、別の提案をするわけでもなく、ウィレムたちから離れようともしない。彼としても、タルタロスに戻らなければならない以上、他の選択肢がないのだろう。アンナを置いて行くよう言うこともなかった。
不意に、牛の手綱を引くイージンが派手にくしゃみをした。つられてアンナとオヨンコアの鼻が控えめな破裂音を鳴らすと、ウィレムの鼻もむずむずと痺れはじめる。結局、我慢できなくなり、ウィレムも大口を開けてくしゃみをした。
特別空気が冷たいわけではなかったが、これまでの道程がひどく暑かった所為か、山では若干の肌寒さを感じてしまう。
アンナもウィレムに同行し続けている。途中、幾つかの村に立ち寄ったが、彼女がそこに残ることはなかった。どの村もウィレムたちを快く迎えてくれた。だが、どこの村でも同様の「祈り」が行われており、その奇蹟を見るたびに、モハンムーラのことを思い出し、ウィレムは居た堪れなくなってしまうのだ。アンナにしてもそれは同じようで、村人と殊更親しくなろうとはしなかった。
「少し急ぎましょう。雨の匂いがします」
「そいつはお牛殿に言ってくれ。全てはこいつの足並み次第なんだからよ」
空を見上げるオヨンコアに、イージンが恨み節を返す。そんな彼の心中を知ってか知らずか、牛は呑気に道草を食んでいた。尻を叩いてみてもどこ吹く風といった様子で、全く動こうとしない。仕方なく、ウィレムは辺りを見回し、雨をしのげる場所を探した。
調度良い岩の裂け目を見つけ、牛の尻をその穴に押し込んだ所で、激しい雨音が後方から聞こえてきた。逃げるようにして穴に転がり込み、辛うじて難を逃れる。
穴のなかは両側に壁が迫り、四人と一頭が入ると、身体をよじる程度の隙間しかなくなった。
「どれくらい降るでしょうか」
「どうせいつも通りだろ。すぐ止むんじゃねえのか」
「そうだね。毎日こんな天気だし」
打ち付ける水滴の群れを眺めながら、三人はここ数日お馴染みとなったやりとりを繰り返す。
途中の村で聞いた話では、雨期に入っているらしい。そのうえ、大気中に活力が満ちており、神々の力が触発されて、例年以上に激しく降っているのだそうだ。
雨は夜半から朝方まで降ることが多く、日中は短時間に激しく降った。雨に打たれ、やっとの思いで木の下に駆け込むと、既に雲が去った後だったということもあった。そんな時は気力が萎えてしまい、なかなか出発することができなかった。
お陰で旅の進行は遅くなる。ヒマーラヤの山脈が眼前に現れたのはこの三日前、ナラーヤナの村を出て半月近く経ってからのことだった。
ふぁっくちゅ――
再び、アンナの鼻が鳴る。全員の視線が一点に集まり、彼女はか細い声で「ごめんなさい」と言って身体を丸めた。
「大丈夫? 寒くはないかい」
ウィレムの問には曖昧にうなずくだけで、声さえ出さない。彼女の頬はこけ、肌には青い静脈が浮いていた。オヨンコアが豆やら野菜やらを無理矢理に食べさせているようだが、調子が良くなる兆しはほとんど見られなかった。口数も少ない。
ナルセスを殺してしまったことが心の傷となっていたところに、モハンムーラの儀式を目の当たりにしたのである。無理もないことに思えたが、ウィレムは彼女に積極的に関わることが出来ないでいた。オヨンコアが甲斐甲斐しく世話を焼かなければ、どうなっていたかわからない。
そのことで礼を言うと、決まって彼女は、
「アンナさんが元気でないと、ワタシも張り合いがありませんから」
と、笑って返すのだ。
各々の事情で気分が沈みがちなウィレムとアンナにとって、普段と変わらぬ対応を見せる彼女の存在は、大きな救いとなっていた。もし二人旅を続けていたならば、二人の脚は既に一歩も動かなくなっていただろう。
「おい見ろ。雨が止むぞ」
イージンの声に外を見ると、雨は大分弱まっていた。所々に青空ものぞく。じきに雲間から日射しが差し込み、雨上がりの山々を眩しく照らすに違いない。