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第85話 再会の約束

 夜空が白みだし、目覚めた鳥たちが口々にさえずりはじめる。湿り気を帯びた空気と一日が始まるという漠然とした不安を抱きながら、ウィレムは牛舎の敷居を(また)いだ。薄暗い小屋のなかは牛と糞の放つ強烈な臭いで満ちていた。人の気配を察した牛たちは、牛舎の入口にゆっくりと耳を向けただけだった。

 小屋の奥にいる二頭が、ウィレムたちの連れてきた牛である。村人は自分たちの牛と同じように、彼らの牛も大切に世話してくれていた。そのうちの一頭の前に立ち、(かんぬき)をはずす。イージンが手綱を軽く引くと、牛はぶるりと身震いを一つしてから、緩やかに歩き出した。

 その様子を見て、残された一頭が、低く、くぐもった鳴き声を上げる。オヨンコアはその牛の首元に優しく抱擁し、柔らかな掌で背中を撫でた。



「お前は賢い子だね。仲間と引き離されるのがわかるんだ。心配しないで。ここの人は皆良い人たちよ。ちゃんとお前を世話してくれるわ」



 牛は彼女の言葉を理解したかのように、短く一声鳴いた。その声がもの寂しく胸を突き、ウィレムも彼の額をひと撫ですると、「ごめん」と一言伝えた。牛はぼんやりと(まぶた)(しばたた)くだけだった。


 村の広場には昨夜の儀式で使われた楼台がぽつりと建っていた。数時前までの賑わいが嘘のように人の声は絶え、人影もない。まるで太古の遺物のように、(たかどの)だけが静かにそびえていた。



「お前ら、コンスタンティウムといい、今回といい、いつも見送りいないのな」



 イージンがわざとらしく厭味(いやみ)を言う。ウィレムは返事をせずに村の家々を振り返った。やはりそこにも人影一つない。当然といえば、当然である。ウィレムは大切な儀式の最中に暴れて、儀式の止めようとしたのである。村人たちの心中を思えば、見送りなどいるわけがなかった。

 子が親を手に掛けることが正しいとは思わない。その考えに変わりはなかったが、愛するが故に父を殺す役目は自分が負うと言ったバクティを、正面から否定することも出来なかった。しかし、それならどうすれば良かったのか。考えても答えは出ず、胸のなかに濁った感情が沈殿していく。心底に積もる泥土に合わせて、ウィレムの歩幅はどんどん狭くなった。


 村の出口までたどり着き、ウィレムは再度振り返った。居心地の良かったはずの村は、どこか空寒く見える。泥壁に開いた大きな窓から刺すような視線が自分たちに向けられている、そんな気がしてならなかった。

 名残惜しさを振り払い村を出ようとしたウィレムの耳に、(せわ)しなく地面を打つ足音と少女の荒い息遣いがとどく。



「待ってー。ちょっと待って、お兄ちゃんたち」



 息せき切って駆けてくるスジャータの姿に、ウィレムたちは脚を止めた。



「見送りは禁止されているんじゃないのかい」

「うん。お父さんは絶対に外に出るなって言ってた。だからこれは内緒なの」



 スジャータは息を弾ませながら嬉しそうに笑う。内緒というわりに彼女の声が他を(はばか)ることはない。いつも通り、声は彼女の感情を素直に写している。そこに幾分かの(うれ)いがにじむ。



「本当に出て行っちゃうの? ここにはいられないの?」

「ごめんよ。こんな風に別れたくはないんだ。でも、仕方のないことなんだよ」

「もう会えないの? また戻ってきたりしない?」

「多分、無理だと思う。僕らは当てのない旅の途中だから」

「そんなの嫌、絶対に嫌」



 スジャータはウィレムにしがみつき、腹に顔を(うず)める。途方に暮れて突っ立っていると、寄ってきたオヨンコアが彼女の背に優しく手を添えた。



「ごめんなさい。ワタシたちは行かなければならないの。でも、生きていれば、いつかまた会えるかも知れないわ。だから、スジャータ、ワタシたちの無事を祈ってくれるかしら」



 スジャータは顔を上げ、ゆっくりとウィレムの服を放した。彼女の目は真っ赤に充血していたが、声を上げることはなかった。



「泣かないのね。良い()よ。涙は女の武器だもの。そう簡単に見せてはだめ」



 オヨンコアの言葉に黙ってうなずくと、スジャータは自分の首の後ろに手を回し、つけていた首紐をはずしてウィレムに渡した。赤く染められた紐の先に円筒形の飾りがぶら下がっている。



「このお守り、あげる。きっとお兄ちゃんたちを守ってくれるから。だから、いつか絶対に戻って来てね」



 ウィレムが首紐を受け取ると、スジャータは口元を引き上げて笑みをつくった。そんな彼女をオヨンコアが思いきり抱き締める。ウィレムは彼女の頭を左手で撫でてやった。



「アンナお姉ちゃん――」



 少し距離を置いて三人を眺めていたアンナに、スジャータが声を掛ける。彼女は一瞬躊躇(ためら)いつつも、遠慮がちに寄ってきて少女の顔をのぞき込んだ。



「元気になってね。きっと、アンナお姉ちゃんは笑ってた方が素敵だから」



 アンナの顔が子どものようにくしゃりと歪む。そのままオヨンコアに被さるようにして、彼女もスジャータを抱き締めた。


 一人の少女に見送られ、ウィレム一行は旅立った。雲間から射し込む(まばゆ)い朝日が、彼らの背を照らしていた。

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