第84話 原人解体
夜が更け、篝火に新たな薪がくべられても、楼台の下では村人の宴が続いていた。歌声と足踏みの音、立ち上る煙、広場の地面には笑う人影が映り、空には星と月が光る。
台の下を見下ろすウィレムにモハンムーラは平たい器を手渡した。なかには先程の儀式で彼が飲んでいた液体が入っていた。
勧められるままに杯を口につける。液体を舌の上で転がすと、わずかな酸味と仄かに香る甘みがあり、呑むと喉から胸の辺りが熱を持った。決して美味いとは感じなかったが、鼓動が高鳴り、視界が開けたような感覚は快かった。
「これ、お酒ですか」
「こいつは神酒にして、甘露。神々の飲料だ。儀式で使った残りだがな」
ウィレムの問いに答えながら、モハンムーラは一息で杯を干した。空になった器にバクティが酒を注ぐ。ウィレムの杯にも入れるよう彼が言うので、慌てて残りの酒を喉の奥に流し込んだ。
「意外でした。お酒を飲まれるのですね。てっきり節制されているのかと」
「普段は飲まぬよ。だが、今日は祭り。こいつで神気を我が身に取り込むのだ。酒を飲めば、誰しも同じように気持ちが良いだろう。まさに神の業というやつだ」
モハンムーラは目を細め、にやりと笑う。酒がまわっているのか、それとも篝火の所為か、彼の白い顔には赤味が差していた。
「まあ、儀式でなくとも時々ならばやっても構うまいて。殊更戒める者もおるが、憂さを忘れ、柵を解き、あるがまま、意識を空に放つことも偶には必要だろう」
彼の口振りは諭すようでもあり、ひとりごつようでもある。穏やかな声はウィレムの耳にするりと流れ込み、頭のなかで木霊する。いつの間にか、その音色に節が付いていた。
歌は一世の鋤
酒は一世の肥
吾が身は種子なり
花咲き 実り 落ちて後は土に帰すのみ
歌は聞くうちに瞼が少しずつ重くなる。酒と歌に誘われて、ウィレムの意識は徐々に薄れていった。
横たわる姿勢で目が覚めた。眼前に楼台が見え、階下に降ろされたことに気付いた。頭は地面に付いているわけではないようで、柔らかなものが触れている。
夢現のまま、頭の下のものに手を伸ばす。熱を持ったしなやかな肉が微かに揺れ、子鹿が射られた瞬間のような、女性の切な気な喘ぎ声が上がる。声のした方を見上げると、アンナと目が合った。
自分が頭の下に敷いていたものが彼女の膝であったことに気付き、ウィレムは慌てて跳ね起きる。恐る恐る顧みると、彼女は既にそっぽを向いていた。状況が掴めず、困惑するウィレムの背をイージンが小突く。
「見ろよ。何やら、またおっぱじまるぜ」
促されて見上げた台の上には、祭壇に横たわる人影とその後ろに立つ女性の姿があった。消えかけの篝火が揺れ動き、炎の煌めきに応じて女性の顔が明滅する。気の強そうな吊り眉と澄ました頬、薄衣の祭服をまとい、すんとそそり立っている。祭壇の人影には光が届かないが、姿形から察するにモハンムームーラだろう。
彼女は一人祝詞を唱えはじめた。今度は復唱する者はいない。黙って楼台を見上げる村人は男性ばかりで、女性と子どもは一人もいなくなっていた。
不意に、詠唱するバクティの顔が曇ったように見えた。表情がどこか変わったというわけではなく、漠然とそう感じた。或いは、陽炎の揺らめきによる錯覚かとも思ったが、一抹の不安が消えずに残った。
祝詞を唱え終えたバクティは、おもむろに祭壇の上のモハンムーラの頭に手を置いた。その手をゆっくりと下方に滑らせる。額から瞳、口、首、胸、そして、腹の三分の二程まで来た所でその手は止まった。調度、臍のある辺りである。
台の下では、皆、息を呑んで儀式の様子をうかがっていた。燠火の弾ける音だけが時折起きる以外、物音はない。無音の鼓動が胸の内を震わせ、焦燥の痺れが四肢に伝播する。早く先を見たいような、同時に、これ以上何も起きて欲しくないような、そんな奇妙な感情を抱きながら、ウィレムは拳を握り締めた。
一度深く息を吐いた後、バクティの眉間に深い皺が寄り、唇が小さく結ばれる。主人の決意に応じるように、彼女の腕は滞りなく動いた。モハンムーラの臍に彼女の中指の先が触れ、そのまま腹のなかへともぐり込む。続いて他の指も同じように臍に吸い込まれ、手首まですっぽりと腹のなかへ姿を消した。
腹のなかに人の手が入っているというのに、モハンムーラに反応はなかった。呻き声を上げることもなく、まるで人形のようにその場にあり続けた。
バクティがゆっくりと腕を引き抜く。入った時と同じように臍から現れた彼女の手には、モハンムーラの腹の中身が握られていた。彼女は手のなかのものを高々と掲げた後、自分の顔の高さまで持ってくると、それに静かに接吻けた。
あまりに異様さに、ウィレムは眼前の光景から目をそむけ、手で口を押さえた。腹のなかで先程食べた豆と野菜が激しく逆巻き、喉元まで這い上がってくるのを感じる。反吐と一緒に、腹の奥底から熱を帯びた感情が昇ってくるのがわかった。
台の上では、バクティが原人解体の儀式を続けている。引き摺り出した腸を妹の持つ皿に乗せると、次に脳と脚を、さらに舌と腕、腿を身体から引き剥がす。彼女の指がモハンムーラの両目を抉ったところで、台の下からイージンの声が響いた。
「バカ、黙って見てろ。ここじゃあ、おいらたちは部外者なんだぞ」
留めようとするイージンの手を振り切り、ウィレムは楼台へ駆け寄った。男たちの声が上がり、彼を止めようと立ち上がる。だが既に、ウィレムは台に掛かる梯子を半ばまで昇り終えていた。
これまでに人間の死を幾つも見てきた。病床のなかで骨と皮だけになった父の姿、誰にも看取られず、見ず知らずの土地で亡くなった旅人。コンスタンティウムでは、友人だと思っていた者に蔑まれながら討たれた男の最期も見た。死とはどのような形であれ、少なからず悲惨なものだということも理解しているつもりだった。だが、実の娘に腑分けされて生を卒えるなど、残酷にもほどがある。
台に上がり、梯子を落とす。多少なりとも時間稼ぎは出来るはずである。
「止るんだ。こんなのあんまりじゃないか」
バクティはウィレムを一瞥するも、何事もなかったかのように粛々と儀式を続ける。ウィレムが一、二歩近付いても手を止めることはなく、眉一つ動かさない。
さらに詰め寄ろうとすると、彼女の妹たちが立ち塞がった。両手を広げ、懸命にウィレムを止めようとする。二人は小刻みに震えながらも、決して道を開けようとはしなかった。
その間も、目の前でモハンムーラの身体は解体されていく。バクティが血管と神経を引き抜く時、勢い余って血が飛び散り、ウィレムの顔に吹き付けた。鼻の渓谷をなぞるようにして、粘性のある液体が滴り、頬を伝って、顎から落ちる。
「なんでこんなことをするんだ。その人は君の父親じゃないか。実の娘が血のつながった親を殺すなんて、絶対にいけない。今すぐ止めてくれ」
ウィレムの叫びが届いていないのか、儀式が止むことはない。祭壇の前では、バクティが皿に乗った各部位を掲げ、それを火炉のなかへ丁寧に投げ込む。すると、火柱が昇り、火の粉が天高く舞い上がり、肉の焦げる匂いが辺りを包んだ。力尽くで止めようにも、二人の少女がウィレムの脚にかじりついて、放さない。
「何故だい。それがバラモンの娘の役目だっていうのか。そんなの馬鹿げてる」
バクティは最後まで滞りなく儀式を続け、炎に供物を捧げ尽した。祭壇の上には何の痕跡もなく、飛び散った血の一滴までもが、集めて火炉にくべらた。
振り返った彼女は、眉を吊り、口を一文字に結んで、ウィレムの前に立った。
頬に鮮烈な痺れが走り、掌が肉を打つ乾いた音が響く。
「馬鹿にしないで。確かに私はバラモンの娘です。でも、だから儀式をやったわけじゃない。私が父様の娘だから、父様の望みを叶えたのです。私が自分の意思で、父様を愛しているからやったことです。私は父様の娘だもの。他の誰にもこの役目は渡さない。貴方が何を思ったか知りませんが、これ以上の侮辱は許しません」
バクティの声には力が合った。彼女の意思が直接伝わり、大気を震わせていた。言い返すことなど出来るはずがない。
「父様がした約束ですから、貴方の行く先には神託を頂きましょう。ですが、明朝、この村を出て行って下さい。貴方はここにいるべきではありません」
膝の力が抜け、ウィレムはその場に座り込んだ。呆然とする彼を火炉から立ち昇るモハンムーラの煙が静かに包み込んだ。