第82話 バラモンは笑う
ウィレムとイージンはバラモンであるモハンムーラの庵に通された。庵は屋根と壁があるだけの荒ら屋で、建物と言うにはいささか粗末すぎた。人が生活しているとは到底思えない。
「汚い所で申し訳ない。適当に座ってくれ。さてさて、椀はどこにあったかな」
モハンムーラはそう言って促すが、床は正真正銘の地面である。躊躇するウィレムを尻目にイージンはどかりと腰を下ろし、両膝を開いて脚を組んだ。結局、器は見つからなかったのか、手ぶらで戻ってきたモハンムーラも同じように胡座をかく。一人立ちっぱなしのウィレムは、渋々二人を真似て地べたに座った。座ってみれば地面は思いのほか柔らかく、臀部に温もりが伝わってきた。
「それで、ウィレム殿とイージン殿はどういうご用だったかな」
「本題の前に訊きたいんだが、あんたの娘がさっき言ってた『アヴァルナ』ってのは何だ。どうせろくなことじゃねえだろうが、自分に向けられた悪態は気になっちまう性分でな」
口を尖らせるイージンを見て、モハンムーラは愉快そうに目を細くする。彼が笑うと両の目尻に三本の皺が寄り、なんとも愛嬌のある顔になった。
「あれはな、穢え下賤の者ってくらいの意味だ。我が子ながら口が悪い」
膝を叩いて笑うモハンムーラにイージンは呆れたように肩を落とす。もちろん彼の場合はそう見せているだけなのかも知れないのだが、ウィレムには彼が本当に閉口しているように思えた。
「あの女、次に会った時は倍返しで言い負かしてやる」
そんなことを言いながらも、彼の声はどこか軽やかだった。
「本題ですが、タルタル人をご存じですか。僕らは彼らの所へ行きたいのです」
「とんと知らんな。タルタル? 何やら美味そうな響きだ」
モハンムーラの答えに、今度はウィレムが肩を落とす。やっとのことで見つけた手掛かりも骨折り損かと思うとため息が出た。あからさまに失望するウィレムの肩に、モハンムーラが枯れ木のような手を置く。固く節くれ立った感触があまりに人間離れしていて、思わず鳥肌が立った。
「そう気を落としなさるな。タルタル人という名は知らんが、別の呼び名は知っているやもしれん。試しにそいつらについて聞かせてくれんか」
そこでウィレムは自分の知りうる限りの知識を彼に伝えた。彼らは決まった場所に留まることなく、馬に乗り、家畜とともに季節を追って生活していること。時折、エトリリアなどの都市を襲い、虐殺と略奪の限りを尽くすこと。文明と呼べるものを持たず、粗野にして野蛮、ただ、恐ろしく強力な軍事力を有すること。イージンにも教えてくれるよう頼んだが、彼はウィレムが知る以上のことは話さなかった。
「今の話からすると、タルタル人というのはシカンデーラのことじゃな」
「シカンデーラ、ですか?」
またも聞き覚えのない言葉が出たため、ウィレムはすぐに聞き返した。ここまで来ると知らないことばかりなのも仕方なく思える。ならば、多少面倒でも、開き直って一々尋ねる方が有益というものだ。
モハンムーラの話によれば、シカンデーラとは、その昔、この地を襲った鬼神の一派のことらしい。西方から馬に乗って大軍で現れ、一帯を破壊してまわったのだそうだ。神々の力でシカンデーラは地下へと去ったが、世界は人が住めないほどに荒廃した。
「そこで神々が遣わされたのが、ジョアン仙だったのだ。彼は自らの威光で世を満たし、儀式を整え、神々の恩沢があまねく世の隅々まで行き渡るようにした。お陰でこの地は再び人の住処となったのだ」
モハンムーラの話はウィレムには受け入れがたいものだった。本来ならば、異教の伝承など聞くに値しない迷信だと切って捨てるところである。ただ、この地に来て以来、神の御業としか言えない奇蹟を幾つも目の当たりにしている。端から嘘と断じることも出来なかった。
「この話でも駄目か。なんとも情けない話だが、助けにはなれんかもしれんな。だが、それで良かったのではないか」
一瞬、モハンムーラの言葉に鼓動が止まった。
「何故、良いのですか。僕らは出発できずに困っているのです」
「いや、あんたは迷っているよ。どこかで出て行きたくないと思っていないか」
心の内を見透かされ、冷たい汗が額を伝う。やたらと唾が出た。
「迷いがあれば幾ら動いても答えは出ないものだ。行く末を定めねば、舟は進めん。ただ流され、さらなる迷い路にはまり込むだけだ」
彼の諭すような声はとても優しい。特段変わった声色ではなく、少し聞いただけなら、ただのしわがれ声である。だが、包み込むような温もりと、どこか懐かしい素朴さがその声から伝わるのだ。彼の声に当てられて喉まで出かかった弱音を、ウィレムは辛うじて呑み込んだ。その日会ったばかりの相手にそこまで甘えることは出来なかった。
モハンムーラは気落ちするウィレムを黙って眺めていたが、眼前まで擦り寄ると肩を軽く叩いた。
「なんなら、あんたらの行く末を天に占ってやろう。異教の神の言葉など信用ならんかもしれないが、なに、気休めくらいにはなるだろうさ」
ウィレムは小さく頷くと上を向いた。彼の情けが有り難く、同時に何も出来ない自分がひどく惨めに感じられた。正面を向いたままでは涙が落ちるのを我慢できそうにない。視界を占める屋根の隙間から、青々と茂る大樹の葉がウィレムたちを見下ろしていた。