第80話 ちょっとそこまで
陰鬱な寝覚めを引きずって寝床から這い出ると、ナラーヤナが声をかけてきた。
「おはよう。昨晩はあまり眠れなかったようだな」
目の下に太い隈を拵えたウィレムは、欠伸混じりの気のない挨拶を返した。
目の奥が重く、両のこめかみを締め付けられているような感覚がある。起きたばかりだというのに、身体は鈍い疲労感に侵されていた。何やら良くない夢を見たような気がするが、その内容が思い出せない。ただ、吐き気を催しそうなほどに気味が悪かったことだけは覚えていた。
鬱ぎ込むウィレムの背を力一杯叩きながら、ナラーヤナは気分転換も兼ねて出掛けないかと誘う。村にいてもすることがないので、ウィレムは誘いに乗ることにした。なにより、アンナと一緒にいることが気まずかった。
食事を済ませると、ウィレムはイージンや村の男数人と連れ立って出発した。
一緒に行けるのは男性だけだと話した時、アンナは無理に付いてこようとはしなかった。二人の様子から何かを察したのか、オヨンコアは黙ってアンナに寄り添っていたが、見送りの際には失望に満ちた目でウィレムをにらんでいた。任せろと大口を叩いておきながらこの体たらくでは彼女の態度もやむを得ないと、ウィレムは甘んじてその視線を受け止めた。
一行の先頭では一頭の牝牛がのんびりと歩を進めている。男たちは牝牛の手綱を一本ずつ握っていた。もちろんウィレムの手のなかにも手綱がある。何故このようなことをするのか尋ねると、これから向かう先は尋常ならざる場所で、道に迷わぬようにお牛様に道案内を頼むのだと、ナラーヤナは大真面目な顔で教えてくれた。皆、手綱を見失わぬよう手綱の先に自分の帯を巻き付けていた。
ちょっとした外出のつもりでいたウィレムは途端に不安になり、地名などわからないというのに、目的地がどこなのかと青い顔でナラーヤナに尋ねた。
「今日はバラモン様の所へお願いに行くのさ」
「おいおい、それじゃあわからんだろう。バラモンてのは、どこのどなた様だ」
ナラーヤナの答えにイージンがさらなる問いを被せる。ウィレムも同じことを考えていたので、彼に同調して大袈裟にうなずいた。
ナラーヤナは顎に手を当てて少し考えた後、バラモンの説明をはじめた。
彼の説明によると、バラモンとは神に仕える人間のことらしい。彼らは神々の声を聞き、人々の願いを神に伝える仲介役で、普段は森や山など人里離れた場所に庵を建て、苦行の日々を送っているということだった。あの奇蹟のような力も、彼らが神々を人界に引き留めてくれているからこそ、使えるのだそうだ。
ウィレムはバラモンを修道士のようなものと理解した。幅広い知識に通じているということで、旅の指針を得る好機かもしれないとも考えた。
そうこうしているうちに、一行は森に差し掛かった。バラモンの庵は森の奥に建っている。牝牛に引かれるまま、ウィレムは森のなかの細い道を進んだ。
生い茂る枝葉が陽光を遮ってはいるものの、森のなかは蒸し暑い。イージンまでがナラーヤナたちと同じように上衣をはだけさせ、肌を露わにしている。拭った汗が手の甲を流れ、指を伝って地に落ちる。空気中の水分と肌に浮く汗の違いがわからなくなってきた。
喉が渇き、頭が朦朧とする。水を飲もうと水筒を口に当てて傾けると、生温かい液体が口内に注ぐ。それを舌で喉の奥へと流し込んでやる。そこで思わぬ事態が起きた。喉へ流れるはずの水が口内で無法に暴れ回り、その後あろうことか、鼻腔へ抜けていったのだ。ウィレムは思わず咽せて水筒を落とす。一瞬天地がぐらつき、鼻の奥を釣り針で引っ張られたような痛みが襲った。その場で膝を突き、何度も鼻を擤だ。痛みが弱まり我に返ると、辺りは一面薄紫の霞に覆われていた。
イージンやナラーヤナたちの姿はなく、牝牛も霞のなかに消えている。振り返っても来た道はなく、進む先もわからない。自分の身体さえ薄紫に隠されていた。
どこからともなく鳴る葉擦れの音が人の笑い声に聞こえた。起きたまま夢を見ているような、或いは、夢が現実に浸み出したような、奇妙で絶望的な感覚だった。耳たぶを思い切り引っ張ると確かに痛い。だが、その痛みさえも、まやかしのように思えた。
イージンたちを呼んでみたが答えはない。その場に留まりたくはないが、進む先はわからない。途方に暮れ、ウィレムは湿った地面にへたり込んだ。
手に付いた泥を払おうと何気なく祭服を擦る。指先に違和感が走り、ウィレムは再度同じ場所を撫でてみた。指でなぞる縫い目の感触が途中で変わっている。つーとん、つーとんと続いていたものが、ある場所から、つっ、つっ、つっ、といった具合に変化していた。普段ならば気に留めることはなかっただろうが、水気を吸って太くなった糸がウィレムに縫い目の違いを気付かせた。まるで、それぞれ別の人間が針を通したように、縫い目の拍子が異なっていた。
気になって縫い目をなぞっていくと、指が帯び紐にかかった。はたと気付いたウィレムが帯を手繰ると、思った通り、帯の先は牝牛の手綱に結ばれていた。
ウィレムは勢い良く立ち上がった。気力など疾うに尽きたと思っていたが、それでも希望があれば身体は動く。無心で手綱を手繰りながら脚を進める。視界がきかないことに多少の怖さはあったが、それ以上に脚を止めることの方が怖かった。
気が付くと、他の男たちと一緒に森の開けた場所に立っていた。来た道を振り返ると、暗い木々の間に途切れ途切れの一本道が見え、その周囲には沼地が広がっている。腰が抜け膝から崩れるウィレムに、イージンがいつもの笑いを浴びせかけた。
「どうした、そんな所にへたり込んで。亡霊に化かされでもしたか」
言い返す余裕など一片もなく、ウィレムは力ない苦笑を返した。