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第79話 五里夢中

 (まぶた)を持ち上げると、見たことのない景色のなかにいた。世界は薄暗く不確かで、淡い紫の(かすみ)で満ちていた。身体は間違いなく自分のものなのだが、意識と感覚の間に薄い布を挟まれたようにおぼろげな感触だった。初めての場所、初めての感覚のはずなのだが、どこか懐かしい気にもなる。

 辺りを見回したが誰もいない。霞を掻くと抵抗なく分かれ、手が通過した後ろで渦を巻くようにして元に戻った。

 遠くで女性の笑い声が聞こえた気がした。或いはすぐ近く、耳の奥、頭のなかで響いているようにも感じられる。


 どこから聞こえるかも知れない声に導かれ、ウィレムは歩き出した。足下もろくに見えないというのに、歩く先には必ず地面があり、真っ直ぐに進んでいるようでいて、同じ所を何度も回り続けているようでもあった。


 進むにつれて霞が身体にまとわりつき、幾層にも重なって手脚を縛る。川の流れに逆らうように、柔らかく確かな力で引かれながらも、ウィレムはその力を振り(ほど)くことをしなかった。

 やがてまとわりつく霞の群れは艶めかしい女の姿に変わった。重さしか感じなかったものに、(うるお)い滑らかな肌としなやかにくねる豊かな肢体の感触が加わる。

 誘うようにくすくすと笑う女たちの声が耳のなかをくすぐった。脚を緩めると、女たちはウィレムを囲むように漂っては、少し離れた所から小さなさざ波となって押し寄せる。頬に、胸に、腹に、腿に、女たちの感触が打ち付けた。


 女たちは口々に尋ねる、貴方は何故進むのと。

 ウィレムは答えずに歩き続けた。理由など考えるまでもなかった。役目を負っているからだ。役目を(まっと)うしなければならないからだ。


 ここは温かいわと女が言うと、柔らかな日射しが降り注いだ。

 ここはとても豊かだわと女が言うと、芳ばしい香りが鼻腔(びくう)を満たした。

 ここはどこよりも安全よと女が言うと、男女が(たわむ)れる声が響いた。

 ここは喜びの園、誰もが満たされる神々の庭、なんなら、もっと別の快楽だって……、そんな囁きとともに女の指先が膝から腿の付け根に向けて優しく撫で上がる。それでもウィレムは脚を止めなかった。

 こんなに素敵な所から、どうして出て行くの。どうして、何故、なんで……



「なんで、なんで出て行っちゃうの」



 眼前の女の影が揺らめき、輪郭がぼやけたかと思うと、泣き顔の少女がウィレムを見上げていた。姿形はスジャータと瓜二つである。



「ここは良い所よ。皆で一緒に暮らそう。お役目なんて捨てちゃえば良いじゃない。なんでそんなにこだわるの」



 脚が止まっていた。

 何故役割にこだわるのか、その問いに対する明確な答えが浮かばない。ただルイに命じられたから、言われるがままに従っただけのことなのか。だとしたら、役目を全うする必要が果たしてあるのだろうか。ウィレムが失敗した所で、代わりの者は幾らでもいるだろう。それどころか、そもそも、ルイがタルタル人と同盟が結べると本気で思っているかも怪しいものである。

 仮定に仮定を重ねたところで答えは出ない。目の前ではスジャータと女たちが妖艶に手招きしている。確かに彼女の村は暮らしやすい所である。全てを忘れ、気ままに生きるのも悪くないかもしれない。そんな考えが頭の片隅に湧きはじめていた。



 坂を転がるように気持ちが傾いていくのがわかる。だが、最後の最後で歯止めを掛けるものがあった。確かな言葉にはならない。曖昧で不安定で、それでいて全てを投げ出すことを躊躇(ちゅうちょ)させるものが、胸の奥に(つか)えている。



「それならば、私はお側にいられません」



 スジャータと女たちは再び形を失い、一つの影を作り出す。首に掛かる茜色の髪、透き通るような肌に、すらりと伸びたしなやかな身体、本来は凛々しさをたたえる瞳を(しと)やかに伏せ、憂いを帯びた眉尻は悲しそうに垂れている。それでも唇には精一杯の微笑を見せる女性。二度と見たくない、二度とさせてはならないと誓った表情だった。



「何の役目も果たせない私は、貴方と一緒には行けません」



 アンナと同じ顔で、アンナと同じ声で、それは言葉を紡いだ。

 力一杯振り払うと一度は砕けて散ったそれは、霞を重ねてアンナの姿に戻った。

 無茶苦茶に腕を振り回し、何度も何度も掻き消そうとするが、それは何度でもアンナの姿に戻り、頭のなかに囁きかける。



「私は一緒には行けません」

「お役目なんて捨てちゃえば良いじゃない」

「私は何者でもないのですから」

「皆で一緒に暮らそう」



 声を遮ろうと叫び続けたが、それでも声は響き続けた。逃げるように手脚を振り回しながら、ウィレムはさらに深い眠りへと落ちていった。

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