第7話 忙しない出発
修道院に入って二週間が経った。出発の日を翌日に控え、ウィレムはアルベールの院長室を訪れていた。来た時と変わらない簡素で落ち着いた部屋である。
「出戻りの君がこんなに短期間でいなくなったら、また噂が立ってしまうね」
師には明るく皮肉られた。それでも院にいる間は何かと気に留めてくれていたようだ。特段嫌がらせなどを受けなかったのも、知らない所で、師の計らいがあったのだろう。
「それから、私からの選別だ。お下がりで悪いけど、清貧を旨とする我が修道院には、あってもしょうがない物だからね」
そう言うと、アルベールは一組の祭服と分厚い書物をウィレムに渡した。純白の祭服は滑らかなリンネル地で、所々に精密な金糸の刺繍が施されていた。書物は革張りの立派な装丁で、表紙の角が金属製の部品で補強されていた。なかには主を讃える数々の詩篇が収められている。
贈り物と預けていた荷物を受け取ると、ウィレムは丁寧に礼を言って、深く頭を下げた。この恩を返せないかもしれないことが、口惜しく思えた。
部屋を出ようとするウィレムの背に、アルベールが声をかけた。
「これは最後の忠告だ。この旅は君一人の旅じゃない。色々な人間の思惑がからんでいる。くれぐれも注意深さを忘れないように」
その晩は新月で、夜陰はいつになく深い。院内の者たちが寝静まるのを待って、ウィレムは寝床を抜け出た。門の所まで来たが、扉には鍵がかかっていなかった。
振り返って見ると、暗闇のなかに修道院が薄ぼんやりとその輪郭を浮かび上がらせていた。院長室にはまだ明かりが灯っている。例え数年でも、青春の一部は、間違いなく、この建物の記憶とともに心に刻まれていた。
ウィレムは門を出た所で立ち止まると、戻ることを許されぬ思い出の地に、再度、頭を下げてから出立した。
ウィレムは、日が昇ってから本格的に歩き出し、正午には待ち合わせの場所に到着した。そこはルテティアに程近い寒村で、ホイは先に着いていた。
「坊ちゃん、随分と遅いお着きですな」
などと嫌味を言う。
正直、好きになれない男だった。
性根が表れている様な醜い顔を出来れば二度と拝みたくはなかった。
「馬車はギョームの旦那が手配済みでさあ。あっ、馬車って言っても、ロバが引く荷車ですがね。護衛とは後で落ち合いますんで、さあ、早く、乗った乗った」
朝から歩きづめで、一休みしたかったウィレムを荷台に押し込むと、ホイはさっさと御者に合図を出した。
「それで坊ちゃんは、いくらふんだくったんです?」
馬車が林道を進んでしばらくすると、ホイは下品な笑みを浮かべながら妙なことを尋ねてきた。
「ふんだくるだって。僕が誰かのものを奪ったと言うのか」
ウィレムは声を荒げる。元よりいけ好かない男だったが、今回の言葉は聞き捨てならない。
「いけねえ、いけねえ。言葉が間違ってやしたかね。なにぶん、卑しい身の上でして、学がねえんでさあ」
一握りの誠意すらこもらない謝罪の後、ホイは、支度金をいくら貰ったのかと、言い直した。
あまりにせがまれるので、ウィレムは懐から口を固く閉じた小袋を取り出した。中には小ぶりの銀塊が三つ入っており、全てにガリア王の証である熊と獅子が向かい合う印が刻まれている。
良く見ると、銀塊の間に丸い金属板のような物が挟まっていた。手に取ると、それは銀貨だった。
「そりゃあ、コンスタンティウム辺りで出回ってるヘレネス銀貨じゃねえですか。そんなもんまで頂いたんで」
驚いたのはホイだけではない。修道院に入る前は確かに銀塊しか入っていなかった。自分の手を離れている間に、銀貨がどこからか生まれた訳もない。
「修道院には、あってもしょうがない物だからね」
師の言葉が頭をよぎり、ウィレムは目頭の辺りに熱を覚えた。厚意の気持ちに一つまみの悪戯心を混ぜる。アルベールの考えそうなことだった。
うつむいて黙ってしまったウィレムに、ホイは狼狽していたが、ふと、銀塊の入った小袋が目に入り、怪しく口元をめくりあげた。
「坊ちゃん、いや、ウィレム様。本当は途中でとんずらこくつもりでしたが、乗りかかった船だ。あっしも最後までお供しやすぜ」
「本当か。それは助かる」
はじめから期待していなかったので、旅の供がいるのはありがたかった。顔を上げたウィレムには、心なしか、ホイが先刻よりも頼もしく見えた。
垢まみれの手を取って感謝の意を表す彼には、相手の心の内に潜む思惑など、知る由もなかった。