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第78話 彼女の事情

 その日の朝食もカリーが出た。赤味を帯びた黄玉色の汁に数種の豆が(ひた)り、食欲をそそる芳醇な香りを放っている。初めて出された時にはあまりに強いその香りに、オヨンコアが昏倒しかけたほどだ。チャパティと呼ばれる薄焼きのパンを千切り、カリーに浸して口に運ぶと、舌の上で刺激と熱が踊り出し、瞬く間に顔から汗が噴き出した。

 ウィレムがカリーに舌鼓(したつづみ)を打っていると、昨晩イージンが言っていた通り、アンナが早々に席を立った。部屋を出ようとする彼女の手を掴み、オヨンコアが引き留める。



「アンナ、アナタ大丈夫なの。今日も全然料理に手を付けてないじゃない」



 見ると、アンナの器にはまだ半分以上も料理が残っていた。カリーに添えられていた鶏肉も一口二口かじっただけで、ほとんど元の形を留めている。食べることが好きな彼女にしては珍しいことに思えた。



「オヨン、心配しないで。あまりお腹が減ってないだけだから」



 そう言うとアンナは静かに部屋を出て行った。慌てて口の中のカリーを呑み込み、彼女の後を追うために立ち上がる。



「ご主人様」



 呼び止められて振り向くと、オヨンコアが腰を半ばまで上げた格好で、不安そうにウィレムを見上げていた。



「そんな顔しないで。アンナのことは僕に任せてよ」



 平静を装ったウィレムの顔を少しばかり黙って眺めた後、



「あの子のこと、頼みます」



 と、オヨンコアは頭を下げた。

 部屋を出る時、後ろでイージンの声が聞こえた。



「あんた、過保護すぎだよ。手を掛けすぎてもあいつらのためにならんぜ」



 その言葉にオヨンコアがどう返したのか、ウィレムの耳には届かなかった。


 ナラーヤナの家を出る。辺りを見回し、足早に通り過ぎると、地虫を()んでいた鶏たちが飛び上がって道を開けた。家の前の道に出ると、村の隅の方に赤い髪が翻るのが見えた。その姿に胸騒ぎを感じ、ウィレムは脚を急がせた。

 近づくにつれて、アンナの姿がより明確に見えるようになる。家や茂みの陰に隠れて遠くからは見えづらかったが、彼女は四つん這いの姿勢で下を向き、時折、背中を丸めてぴくりと震えた。そのうち、砂と太陽の臭いに混じって鼻を刺す臭気がかすかに漂うようになった。



「アンナ。やっと追い付いた」



 驚かさないよう普段通りに声を掛ける。ウィレムを見るなり、アンナは逆方向に駆け出そうとした。だが、足下の液体に滑った彼女は、不格好に転けて再び地に伏した。

 アンナがらしくない醜態を晒す隙に、ウィレムは彼女に追い付いた。臭気は彼女の周りから放たれているようで、一瞬ウィレムも手で鼻を覆った。



「み、見ないでください。なんでここにいらっしゃるんですか」



 喉が()れたような声、語気には力がない。アンナの足下を見て、ウィレムは臭気の正体を理解した。赤味を帯びた黄玉色の液体から立ち昇るのは、先程まで食べていた朝食の香りと胸を突く()えた臭い。自分の方を向こうとしないアンナに無理矢理正面を向かせると、臭いを放つ液体と同じものが彼女の鼻と口元に垂れていた。



「アンナ、いつからこうだったんだ」



 無意識に声を荒げていた。彼女の肩に置いた手にも、俄然力がこもる。アンナはウィレムから視線を外し、口を(つぐ)んだ。



「話して。何があったんだ。話すんだ、アンナ。話せ」



 掴んだ手で彼女を揺すると、ヤナギの枝が風を受けるようにたおやかに身体をはためかす。それでも話そうとしないので、両手で頭を抱え、彼女の瞳をのぞき込んだ。すると、やっとのことで彼女は口を開いた。



「ナルセス様を斬った日からです。あの日以来、肉を見るとこうなってしまって……。他のものもほとんど食べられないんです」



 ナルセスが討たれてから既に一月近く経っていた。その間も何かしらのかたちで肉は食卓に並んでいたから、その間中、彼女は満足に食事を出来なかったことになる。彼女が気落ちしていたことには気付いていたが、そこまでとは思っていなかった。なにより、心のどこかでアンナならば大丈夫だろうと(たか)(くく)っていたのだ。



「感触を思い出すんです。肉が(はじ)けて、骨が(ひしゃ)げて、(はらわた)が潰れていく感触を。鼻のなかが血の臭いで一杯になって、目の前が真っ赤になって、ナルセス様の息遣いが細くなっていくのが聞こえるんです」



 アンナの声が速まる。瞳孔が開き、どこを見ているのかわからない。目の前のウィレムのことが見えているのかさえ、定かでなかった。



「あれ以来、剣を持っても駄目なんです。身体が震えて、抑えられなくて。自分の身体じゃないみたいなんです」

「もう良い、もう良いから」



 ウィレムはアンナを抱きしめた。強く、ただ強く抱いた。それでもアンナはぶつぶつと言葉を吐き続けている。腕の中の彼女は、ウィレムが思っていたよりもずっと華奢で、小さく、頼りなかった。



「アンナが殺したわけじゃない。君は何も悪くないんだ」

「いいえ、私がこの手で斬ったんです。ナルセス様を、人を殺したんです」



 それは違うと言いかけて、言葉に詰まった。ナルセスにとどめを刺したのがベリサリオスであることはアンナも知っているはずだった。それでも、彼女のなかでは違うのだ。彼女が手を(くだ)した段階でナルセスの命脈は尽きていた。その後、誰が何をしようと、ナルセスの命を奪ったのは彼女なのだ。

 懸命に救いの言葉を探した。だが、自分のなかに浮かぶ言葉は、どれも陳腐で空虚で生半可なものばかり。自分の無力さをこれほど感じたことは、これまでに一度もなかった。



「君は僕を救うために戦った。僕を守る剣、その役目を(まっと)うしただけじゃないか」

「違うんです、違うんです」



 アンナの声から弱々しい響きが消える。震えてこそいるが、確信に満ちた力強い声。そのことが逆に、彼女が強く自分を(さいな)んでいることの証のように思えた。



「あの時、私は楽しかったのです。ナルセス様と戦うことにときめいていた。そのことしか考えていなかった。ウィレムさまのことも忘れ、私は強者(つわもの)との戦いに、殺し合いに酔っていた」



 言葉の雨は叫びに変わり慟哭になる。涙と反吐(へど)でウィレムの服に染みができる。

 叫声は言っていた。

 私は剣ですらなかったと。

 絶叫は大気を震わせた。

 役目がなければ、共にいられないと。

 言葉ではなかった。だが、ウィレムはその意味を理解した。



「そんなことない。たとえ戦えなくたって、アンナはアンナだよ。一緒にいよう。今度は僕が君を守るから」



 震えていたアンナが固まったのがわかった。腕のなかで強く優しい力が膨らみ、ウィレムの身体を突き放す。彼女の涙はぴたりと止まっていた。



「それは駄目なのです。今の私はウィレムさまの許嫁でもなければ、メリノの令嬢でもありません。そのうえ剣も握れないのでは、どうしてお側にいられましょう」



 彼女の顔に浮く笑顔を、ウィレムは一度見たことがあった。ガリアで別れを告げた日と同じ、静かに沈んだ笑顔だった。

 アンナは服の袖で瞳に残る雫を(ぬぐ)うと、村の方へ駆けていった。ウィレムは後を追うことも出来ず、呆然とその場に立ち尽くしていた。

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