第77話 置いてけ
夜の帳が静かに降り、人は皆家に帰る。旅人も仮の宿に戻り、仲間たちと食事を囲む。ウィレムは、その日村人から聞いた話をアンナたちに話して聞かせた。結局何の糸口も得られず、話し合いの結果、もう少しこの村で世話になることを決めた。「スジャータが喜びますね」と、アンナが遠慮がちに笑った。
食事の後、食器の片付けや寝床の準備をアンナとオヨンコアに任せ、ウィレムとイージンは外に出た。怪しむ二人に、男同士には女には聞かせられない話があるとイージンが仄めかし、いらぬ誤解を招いて一悶着あったが、ウィレムが言葉を尽くして彼女たちを説得した。
外は日中に比べると暑さも穏やかだったが、湿り気のある空気は肌の上にじわりと染みた。不快ではないものの、ガリアに吹く軽やかな風とは違い、豊かな重さには未だに慣れない。人の気配は家のなかで、空の星々と家々の灯りが暗闇のなかで混じり合って幻想的な景色をつくりだしていた。
「それで話ってなに。夜に出歩くのは良くないし、手早く済まそう」
ウィレムが持つ灯火に照らされ、イージンの細長い顔が闇の中に浮かび上がる。暗さの所為か、いつもの皮肉めいた表情はその顔から見て取れない。
「ウィレム、お前はこの村のこと、どう思う」
「なんだい、唐突に」
「良いから言えよ。この村に来てどう感じた」
重大な要件でもあるのかと気負っていたウィレムは、肩透かしをくらったような思いがした。ただ、イージンの声がいつになく重いこともあり真面目に答える。
「良い所だと思うよ。人は皆優しいし、食べ物も豊富みたいだし。味付けはちょっと激しいけどね」
「確かにあのカリーってのは刺激的だ。おいらの舌もまだ痺れてら。他には?」
「外敵の心配もないんじゃないかな。村の外に堀や塀どころか柵もなかった」
「全く不用心だぜ。おいらは心配で近頃ろくに寝れてねえ」
「イージンは警戒心が強すぎるんじゃないの」
珍しくイージンと話が噛み合い、ウィレムは悪い気がしなかった。こうやって年の近い同姓と普通の会話が出来たのは、ガリアを立って以来幾らもなかった。
その後イージンは村についての感想を尋ね続けた。ウィレムは一つ一つ感じたままに答えていった。
二人が特に興味を持ったのが、スジャータの使った不思議な力のことだった。ウィレムたちの怪我を治した時、彼女は神様が願いを叶えてくれたと言っていたが、ウィレムにしてみればそれは魔法や奇蹟の類いに見えた。しかも、治療以外にも様々なことが出来るらしい。火種を呼び出したり、雲を起こして雨を降らせたり、獣に意思を伝えることも出来るという。シャクティが空中に浮いたり、ウィレムたちを助けたのも、この力によるところだったのかもしれない。
「おいらでも洗礼さえ受ければ使えるらしいしな」
イージンがスジャータを真似て掌をかざす。もちろん何も起こらない。
ウィレムは自分の掌に目を落とした。自分があの力を使えれば、今まで見上げるしかなかった場所に手がとどくだろうか。そんな思いがないわけではない。あの力をものにすれば、アンナやルイのような特別な人間に追い付くことが出来るかもしれないのだ。だが、そのための方法が眼前にあるというのに、思ったほど胸は高鳴らなかった。
「お前もここを過ごしやすい良い村だと思うんだな」
念を押すような問いかけに、ウィレムは首を傾げた。尋ねられる度に何度も肯定している。イージンの様子はいつもと違った意味で奇妙だった。話し方から察するに、ふざけているわけではなさそうだが、彼の問の意図が全く掴めなかった。
「そんなに良い村だって言うならよ、アンナの嬢ちゃんはここに置いてけよ」
「なんだって」
思わずウィレムは聞き返した。話の脈絡が全く見えない。自分の耳を疑った。
「だからよ、アンナはこの村に置いてけって言ったんだ。幸い村人も良くしてくれそうだし、スジャータ嬢ちゃんも懐いてる」
灯火が手から落ちる。
薄明かりを頼りにイージンの胸座に掴みかかったが、簡単に躱された。イージンの出した脚に引っ掛かり、顔から地面に倒れ込む。
「お前、普段は大人しいくせに、ちょっとしたことですぐ頭に血が昇るよな」
声に馴染みある嫌な調子が戻っている。恐らく顔には嘲笑が浮いているだろう。
「どうして急にそんな話になるんだ。アンナを置いて行くなんて、どうかしてる」
唇が切れたのか、口内に鉄の味が広がる。イージンの脚を捕まえようとするが、彼の脚は闇のなかへ消え、気配までがぼやけて夜に溶けた。どこからともなく彼の声だけがウィレムの耳に届いてくる。
「おいらは至って正常さ。特別急な話でもないしな。あいつはもう駄目なんだ」
声が聞こえたと思った方向に飛びかかったが、両腕は宙を掻いた。今度は勢い余って胸を地面にしたたか打ち付ける。腹の空気が咳になって喉から雪崩出た。
「アンナのどこが駄目なのさ。あのナルセス殿にも勝ったんだぞ」
「ああ、闘技会の決勝ならおいらも見たよ。あの時のあいつは最高だった。だが、もう戦えねえ」
イージンの言葉の意味がわからなかった。アンナが戦えないことなど、あるはずがないのだ。ウィレムは彼女が美しく戦う様を常にその側で見てきたのだから。彼女が戦えなくなることなど想像できなかった。
「嘘を言うな。アンナだぞ。あのアンナが戦えなくなるわけ、ないじゃないか」
「だが実際に戦えねえのさ。ここに落ちてきた日、あいつはナラーヤナを斬り損ねたよな。そんなこと今までにあったか。だいたい剣を取った時から様子がおかしかっただろう。あれは戦う奴の目じゃねえ。怯えて逃げるウサギの目だ」
言われてみれば、その通りだった。省みれば、他にもおかしな点が思い当たる。これまでのアンナは戦いの最中もどこか遊んでいるようなところがあった。敢えて相手に攻めさせ全てを受けきった後で攻めに転じたり、故意に隙をつくって相手を術中に引き込むこともあった。少なくともナラーヤナにしたように、相手を確認もせずに斬り掛かるような余裕のない戦い方を見たことがなかった。
「でも、それだけじゃ……」
すがるような思いで言葉を探すが、虚しいだけだった。足下が崩れ去るような思いが去来する。他人に見せられないような情けない顔をしているに違いない。
「でもじゃねえ。オヨンコアだって感付いてるぜ。アンナ・メリノは折れた剣だ。それなら、過酷な旅に連れてくより、ここに残してやった方があいつのためだろう。綺麗なだけの女なんて足手まといにしかならんしな」
アンナのことをいたわっているようで、イージンの声には熱を感じない。証書の文言を読んでいるように、平板で、無味乾燥で、的確で、なにより冷徹だった。
「それでも、アンナなんだ。少し時間をおけばきっと元に戻るよ」
必死だった。アンナのことを話している気がしない。自分の根幹を成すものがどろどろと溶け出していくような感覚。支えを失った建物が倒壊するように、自分がバラバラになる気がして目を瞑った。
「目覚まして現実を見ろ。お前が見てるアンナ・メリノは幻想だ。幻に取り憑かれて目が凝り固まった奴の末路なら、コンスタンティウムで見せてやったろう」
いつの間にかイージンの気配がすぐ前にあった。ウィレムは目を閉じたまま頭を左右に振る。これ以上何も聞きたくなかった。それでも彼の声は耳の中へと滑り込んでくる。
「おいらの言葉が信用ならんなら、自分の目で確かめな。明日の朝もアンナは食事を先に済ますはずだ。後を追えば、おいらの言葉が正しいとわかるだろうよ」
そう言うと、イージンは泥だらけのウィレムを残して気配を消した。