第76話 引き留め
「ご主人様、そろそろここを出立しませんか」
オヨンコアがそう切り出したのは、一行がナラーヤナの村に滞在して三日目の朝だった。早々に席を立ったアンナを除き、ウィレム、オヨンコア、イージンの三人が敷物の上に車座になり、各々の器に盛られた料理を食べていた。
ウィレムは豆の油煮に伸ばしかけた手を戻す。カリーと呼ばれる料理で、毎食のように出た。味は強烈で、しかも、ただ辛いだけでなく、甘さ、酸っぱさ、芳ばしさ、鼻に抜ける爽やかな刺激、そう言ったものと豆の素朴な土臭さが一緒くたになって重層的な味をつくりだしている。そんな料理は、ガリアでもヘレネスでも、味わったことがなかった。
「出発したいのは山々だけど、どこへ向かえば良いかわからないんだよ」
「ですが、いつまでもお世話になるわけにもいきませんし」
「ゆっくりしても良いんじゃねえか。あの嬢ちゃんも随分懐いてるようだしな」
いつものようにイージンが横槍を入れる。オヨンコアは彼に冷たい視線をくれたが、それ以上のことはしなかった。何より、今回に限ればイージンの言に理があった。目的地や道筋がわからないまま出発するのはあまりに無謀である。聡明な彼女ならば、そのことは十分わかっているはずだった。
「村の人に話を聞いてみるよ。出発はそれからでも遅くないさ」
そう言うと、ウィレムは自分の器から豆を取って口に運んだ。
食事の後、ウィレムはイージンを伴って村人を訪ねて回った。アンナとオヨンコアにはナラーヤナの家の手伝いを頼んでいる。世話になり放しでは悪いということもあるが、二人には合間の時間だけでも羽を伸ばして欲しかったのだ。スジャータと遊ぶのも骨休めにはなるだろう。
村には十数件の家があった。一件ずつ訪ね歩き、男たちに話を聞くために畑にも脚を運んだ。半日聞き込みをしたが満足な情報は手に入らなかった。辛うじて役に立ちそうだったのが、村の近くにガンガーという川が流れていること、もう少し下流へ行けば別の村もあるらしいということくらいだった。ナラーヤナの村には特に呼び名もなく、幾つか聞いた地名も知らないものばかりだった。
閉口したウィレムが足取り重く帰ってくると、家の前でアンナと戯れていたスジャータが猪のように駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、出て行っちゃうって本当なの? 嘘でしょ、ね、ね」
胴にしっかとしがみつき、子どもらしい跳ねるような口調でウィレムに迫る。玄関先に出てきたオヨンコアが彼女の後方で済まなそうに頭を下げていた。どうやら村を出ることを彼女に話してしまったようである。
「ここは良い所よ。ご飯は美味しいし、みんな優しいし、神様も見ててくれる」
ウィレムが答えに窮していると、スジャータは先手を打って畳み掛ける。そのうち喉の奥で声が閊えるようになり、遂には大粒の涙が瞳に浮くようになると、最早ウィレムには太刀打ちする術がなくなっていた。
「なんで、なんで出て行っちゃうの」
幾度となく繰り返されるスジャータの慟き声が胸に刺さる。その言葉は心臓に爪を立てるように、きりきりと柔らかな痛みとなり、腹の底に積もっていった。出て行く理由など一つしかない。タルタロスへ向かう、それが自分に課せられた役目だからだ。
ウィレムはしゃがみ込んで、スジャータの目線に自分の目線を合わせた。頭に手を置き、静かに髪を撫でてやると、艶めく黒髪が指の腹を滑る。
「僕には大事なお役目があるんだ。だから近いうちに出て行かなくちゃいけない」
「そんなのどうでも良いよ。お兄ちゃんもお姉ちゃんもずっと一緒にいてよ」
人に好かれて悪い気はしない。しかし、役目を捨てることも当然できない。すっかり弱ったウィレムに助け船を出したのは、イージンだった。
「心配すんな、嬢ちゃん。兄ちゃんも姉ちゃんも勝手にいなくなったりしねえさ」
スジャータが頭を上げる。瞳は輝き、表情は瞬く間に明るくなった。頬に残る涙の筋が作り物に見えるほどの変わり様である。
「本当? ウィレムお兄ちゃんもアンナお姉ちゃんもオヨンお姉ちゃんも、きつね目のおじちゃんもみんなどこへも行かない?」
「おいおい、おじちゃんは止してくれ。傷つくぜ」
「わかった。ありがと、きつね目のお兄ちゃん」
そう言うとスジャータは嬉しそうにアンナのもとへ走っていく。ウィレムはぽかんと口を開けたまま、少女の背を見守った。気分が変わるにしても、あまりに振れ幅が大きすぎる。末の妹のことを思い出し、子どもとはそういうものかとも思ったが、振り回される方は大変だ。何やら一気に疲れが湧き、ウィレムはその場に座り込んだ。
「嘘くらいつけるようになりな。正直なだけじゃ世の中生きづらいぜ」
イージンが歯を見せて笑った。助けられたことには感謝したが、人を小馬鹿にするような笑みがどうしても気に入らない。
「そうだね、そのうち嘘の付き方を教えてよ。きつね目のおじちゃん」
「お前がそれを言うな。たいして歳も離れてねえくせに」
珍しくイージンからの反撃がない。少し意外ではあったが、それで多少は気が晴れた。言われ放しというのは、冗談だとわかっていても気分の良いものではない。
にやにやと口元を緩めるウィレムに、イージンが小声で耳打ちする。
「話してえことがある。飯の後にでも時間をくれや」
いつになく真面目な口調に振り返ったが、イージンは普段通りのきつね顔に変わらぬ笑みを張り付かせていた。