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第75話 小さな奇蹟

「いやいや、驚いたよ。森でお牛様を見かけて追って行ったら、絶世の美女が現れて、そのうえ斬りつけられるなんて思いもしなかった」



 村へ向かう道すがら、ナラーヤナはアンナに襲われた時のことを大仰に話した。その度にアンナは済まなそうに頭を垂れて、小さくなる。

 事の顛末(てんまつ)はこうだ。ナラーヤナたちが牛を追ってウィレムたちの前に現れた時、アンナは制止の声も聞かずにいきなり斬り掛かった。驚いて腰を抜かしたナラーヤナの股の間に地響きをあげて重剣が突き刺される。剣を引き抜き追撃に出ようとしたアンナをウィレムとイージンがすんでのところで抱え込み、彼女を止めたのだ。

 最悪と言っていい出会いだったが、ナラーヤナたちはすんなり彼女を許したうえに、行き場のないウィレム一行を自分たちの村に招待してくれた。あまりに都合良く事が運ぶためイージンは大いに怪しんだが、ナラーヤナ(いわ)く、



「お牛様のお導きだよ。粗相があっては罰が当たる」



 という事らしい。この時ばかりは、牛車を手配したイージンにウィレムは心から感謝した。


 森を出てしばらく平坦な道を進んだ。遮るものがなくなり、大空から鋭い陽光が襲う。そのくせ空気は湿ったままで、(ぬぐ)っても拭っても汗が止まらず、ウィレムは僧衣の袖をたくし上げた。熱さを紛らわそうとナラーヤナに話しかけると、一言に対して十の話が返ってきた。彼の村や家族のこと、ウィレムたちの素生など、たわいのない会話を交わしているうちに、遠景に人家の煙が見えてきた。


 彼らの村は小さかった。堀や柵などの囲いはなく、田園の奥に日干し煉瓦(れんが)と泥壁に藁葺(わらぶ)き屋根を乗せた家々が幾つか集まっている。ガリアの農村とあまり変わらない生活水準ではあったが、コンスタンティウムやセサロニカを見ているウィレムには、ひどく原始的に思えた。


 村に入るなり、一行に向かって少女が駆け寄ってきた。勢い良く地面を蹴った少女は空を滑る鳥のような軽やかさでナラーヤナの胸に飛び込んだ。



「お帰り、お父さん」

「ただいま、スジャータ。お前はいつも元気だね」



 抱き上げられた少女は満面の笑みをたたえて父を迎えると、その後ろに見慣れない一団を見つけ、好奇の眼差しを投げかけた。自分に向けられた無邪気な視線に、ウィレムは手を振って返す。だが、疲労からか、つくった笑顔はぎこちないものになってしまった。思えば近頃心から笑っていなかった。苦笑いや愛想笑いが多かった気がする。

 ウィレムの様子を察したのか、スジャータは心配そうに眉を寄せて歩み寄る。



「お兄ちゃん、どこか痛いの? それともお腹空いた?」



 慌てて笑顔を作り直す。子どもに心配されるというのは思った以上に応えるものがあった。情けなさでいたたまれなくなるのを抑え込み、少女の顔をのぞき込む。



「ありがとう。でも大丈夫だよ。少し疲れちゃっただけだから」



 小さな頭を撫でてやると、少女の顔に笑みが戻った。



「お父さん。スジャータ、お兄ちゃんたちにお水出してあげたいの。お家に連れて行っても良い?」

「勿論だ。私は(おさ)の所に寄っていくから、お前が案内してあげなさい」



 ナラーヤナの承諾を得ると、スジャータはウィレムの左手を引いて駆け出した。半ば引きずられるようなウィレムの姿に、その場にいた人々から笑いが起こった。


 スジャータの家は村の東にあり、大きな窓のある家の前では数羽の鶏が地面を(ついば)んでいた。スジャータはウィレムたちを玄関前に残してなかに入ると、人数分の素焼きの器に水を注いで現れた。

 礼を言って器を口に運ぶ。一口含むと、水は瞬く間に舌に吸われた。余計に渇きを耐えがたくなり、器に残った水を一気に(あお)る。流水が一遍に喉を走り抜け、堪らずウィレムが咳き込むと、スジャータは慌てなくてもいいのにと笑って、新しい水を器に注いだ。


 休息をとりながら、ウィレムはスジャータと話をした。父親に似たのか彼女はおしゃべりで、矢継ぎ早に質問を浴びせ掛けてくる。答えるウィレムにも少しずつ自然な笑みが戻る。つられて(ふさ)ぎ込んでいたアンナの表情も緩んでいった。



「お姉ちゃんたち、その怪我痛くないの?」



 何かと尋ねたがるスジャータがアンナとオヨンコアの傷に気付いたのは、話が二人のことに及んだ時だった。アンナの左目の下と鼻筋にはナルセスとの戦いで負った傷が、オヨンコアの腕にはエドムンドゥスを抑えつけた時の噛み跡が、未だに消えずに残っていた。二人はきまりが悪そうに急いで傷を隠す。



「ワタシたちは大丈夫よ。アナタ良く気が回るわね。きっと素敵な女性になるわ」

「本当。スジャータ、お姉ちゃんたちみたいにきれいになれるかな」

「ワタシたちよりもっとずっと良い女になれるわよ」



 オヨンコアがスジャータの頬に手を当てると、彼女は目を細めて愛らしく笑った。それから何か思いついたように(せわ)しなく家に戻ると、小さな壺を手に帰ってきた。



「お姉ちゃんの怪我、スジャータが治してあげる」



 彼女は強引に二人の傷を出させると、そこに壺のなかに入っていた緑色の軟膏(なんこう)を塗り込んだ。アンナとオヨンコアは少女の善意を無下には出来ず、為されるがまま身を委ねていた。

 一通り二人に薬を塗り終わると、次にスジャータはウィレムの方へ駆け寄った。ウィレムはなんの用事かと首を傾げる。



「お兄ちゃんも手出して。左手が悪いんでしょ」



 驚きのあまり、ウィレムは少女の顔をまじまじと見つめた。確かに彼の左手はレオポルドによって指を三本まで折られていた。既に回復こそしていたが、握力と感覚は戻らず、手を握ろうとしても三本の指だけがなかに鉄の芯を入れられたように動かなかった。彼女はウィレムと一度手をつないだだけで、左手の異常に気付いたのだ。



「心配しないで。きっとお兄ちゃんの手も良くなるから」



 そう言って薬を塗り始める少女からウィレムは目を離せない。薬は思ったほどぬめりがなく、ひやりとして気持ちが良い。爽やかな香りが鼻を通り抜ける。


 スジャータは三人を自分の前に集めると、各々の傷に手をかざしながら朗々と唱いはじめた。


 駆ける駆ける(あめ)の車 東より()で西に入る

 (あるじ)は誰ぞ 見目麗しき双子神

 潤し 癒やし 生かすもの

 御名(みな)をば(たか)きアッシュヴィン双神

 吾が請うところ 恩沢をあられかし



 詩が進むにつれて薬を塗った箇所が熱を持つ。その熱が脈に乗って網状に伝わり、胸の内で燃えている。先程飲んだ水は汗となって毛穴から噴き出し、喉の渇きがぶり返す。自分の身体にただならぬことが起きているのを感じながら、ウィレムはスジャータの詩に聞き入った。


 不意に身体中の力がふわりと抜け、同時に胸中の熱も去る。快い疲労感に任せて地面に腰を下ろすと、何気なく突いた左手に乾いた土の感触が伝わった。

 すぐに左手を持ち上げ、顔の前に持ってくる。錯覚でないならば、以前の感覚が戻っていた。ゆっくりと拳をつくってみる。小指、薬指、中指の順に曲がる指は掌の中に収まった。今度はその拳を開く。すんなりと指が動き、隠れていた掌が現れた。



「一体何をしたんだい。まるで奇蹟だ」



 顔を上げ、目を見開くウィレムに、スジャータはその日一番の笑顔を向けた。



「なんにもしてない。神様がお願いを聞いてくれたの」



 少女の言葉を受け止めきれず、ウィレムは同様に目を丸くしているアンナ、オヨンコアと顔を見合わせた。アンナの左目の下にはまだ幾分かの傷跡が残っていたが、その他の傷はきれいさっぱり無くなっている。互いの傷が()えているのを確かめ合うと、三人は再度少女の瞳をのぞき込んだ。

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