第74話 ようこそ、楽園へ
人が想像できるものは必ず存在するという言葉がある。何故なら、造物主たる神が創造物である人の考えるものに思い至らないはずがないからだ。だがしかし、眼前に浮かぶ女性は果たして同じ神の創造物なのか、ウィレムには判断がつかなかった。
シャクティと名乗ったその女性は、事態を飲み込めずにいるウィレムたちを置き去りに、一人で話を続けた。
「貴方たち、変わった空の飛び方をするよね。あたし、てっきり落っこちてるのかと思って、助けちゃった」
彼女の言葉で、ウィレムの頭のなかに先程の奇妙な浮遊感が蘇る。
「あれは君がやったのか」
「そうよ。余計なお世話だったらごめんね。でもさ、あのままだと貴方たちが大地と接吻するんじゃないかと思ったんだもん」
シャクティはさも当然のことのように、無邪気に答える。一方のウィレムは全身から血の気が抜けていくのを感じ、身震いした。
「君は一体何なんだ。魔女か、それとも悪魔や亡霊の類いか」
言葉にしながら、自分がどうにかなってしまったのではないかとさえ思った。恐ろしさに震えていることを隠そうと、脇を締めて身体を硬直させる。人が空中を浮くわけがない。ましてや、他人を浮かせるなど尚更である。邪教の秘術か、この世ならざる者の力か、どちらにしても彼女が只者でないことだけは確かだった。
「失礼ね。シャクティはシャクティ、他の何者でもないんだから」
彼女が頬を膨らませると、途端に空に雲が湧き、あっという間に辺りは薄暗くなった。鳥も虫も声を潜め、変わりに木々が葉擦れの音を立てはじめる。湿った大気までが急にぴんと張りつめたように感じられた。
ウィレムが数歩後退ると、いつの間に近づいたのか、背中越しにイージンが小声でささやいた。
「機嫌を損ねてどうすんだ。早く謝らんと、何されるかわかんねえぞ」
小突かれてよろめきながら、ウィレムがシャクティの前に歩み出る。脚が震えて上手く止まれず、前のめりに倒れそうになった。
「ごめん、シャクティ。君のおかげで助かった。本当に感謝しているよ」
ウィレムの言葉でシャクティの顔に笑みが戻る。たちまち雲は掻き消え、空には照りつける太陽が帰ってきた。その様子に驚きつつ、彼女の機嫌が直ったことにウィレムは胸を撫で下ろした。
「わかれば良いの。それで貴方お名前は? 助けた相手の名前くらい知りたいな」
「僕はウィレム。後ろのがイージンで、そこの二人がアンナとオヨンコアだよ」
動揺を悟られないよう、至って平然と、なおかつ親しみのある口調で話すことを心掛けた。笑顔をつくっては見たものの、どうしても口元が引き攣ってしまったが、シャクティに気に留めた様子はない。
「僕たち偶然落ちてきて何もわからないんだ。もしよかったら、ここがどこなのか教えてくれないか」
「やっぱり飛んでたわけじゃなかったんだ。空から落ちるなんてお間抜けね」
彼女は得意気に口角を引き上げて愛らしい表情をつくると、嬉しそうに身体をくねらせて空中で一回転した。まるで魚が水のなかを泳ぐように、優雅で艶めかしく宙を舞う。彼女の仕草にはアンナの剣技やナルセスの舞と同じように、人を魅了する力が備わっていた。
「外からのお客さんなんていつ以来だろ、大歓迎よ。ここは神々の息吹く場所、天上の恵み享ける盃、いと尊き聖ジョアンの国、ようこそ、あたしたちの楽園へ」
シャクティが歓待の辞を早口で言い終えて慇懃に頭を下げた時、ウィレムたちの後ろで枝葉の揺れる音がした。振り返ると茂みの中から二頭の牛が頭を出す。牛車を引いていた牛たちだった。
何事かと身構えたウィレムだったが、牛たちのつぶらな瞳を見て一安心する。恐らくはシャクティが牛たちの命も救ってくれたのだろう。礼を言おうと振り向くと、既に彼女の姿は忽然と消えていた。
幻でも見ていたのかと目をこすり、彼女の名を呼んでみたが返事はない。シャクティの声の代わりに聞こえてきたのは、男たちの呼び声と木の枝をどけながら進む数人の足音だった。
声は牛たちが出てき茂みの方から聞こえる。揺れる茂みに目をやりながら、慎重に後退して距離を置いた。イージンは腰を落とし、どの方向へでも素早く飛び出せる構えを取る。先程までオヨンコアの傍らに座り込んでいたアンナも、既に重剣を抜いていた。
動物たちの鳴き声に混じってアンナの呼吸が耳に入る。彼女の息は荒かった。まるで全力で走った直後のように短く吸って短く吐くを繰り返す。彼女が動揺するほどの相手なのかと、ウィレムも拳に力を込めた。緊張するウィレムを尻目に、二頭の牛は口の届く高さにある木の葉をのんびりと咀嚼していた。
いよいよ話し声と足音が大きくなり、茂みの向こうから褐色の肌に腰巻き姿の男たちが現れた。彼らの姿を目にするなり、アンナが重剣を構えて跳び掛かる。男たちが武器を持っていないことに気付き、ウィレムは彼女を引き留めようとしたが、その声は彼女の耳には届かなかった。