第73話 落ちた先
どこまでも落ちていく。暗く深い地の底へ。
ポントゥスの大穴に放り出されたウィレムたちは、真っ逆さまに穴底へと落ちていった。見上げる崖は瞬く間に小さくなり、エドムンドゥスの歪んだ表情も見えなくなった。視界に入るのは天頂に昇る変わらぬ太陽だけで、絶壁の岩肌さえよく見えない。じきに視界のなかで変化するものは何一つなくなり、自分が落ちていることさえ不確かに思えるようになった。
「こんな時なんて祈れば、お前らの神さんは助けてくれるんだ。ジーザスか」
風に運ばれてイージンの泣き言が聞こえてきた。流石の彼も声が裏返っている。
目線を移すと近くにオヨンコアの姿があった。驚いたことに、彼女は片腕にアンナを抱えていた。彼女よりも一回りは大きなアンナの身体がその胴に力無く巻き付いている。
ウィレムは宙を掻いて二人に近づこうとした。オヨンコアも同じように腕を振るが、アンナが邪魔で思い通りに身動きが取れないようである。もう少しで手が届くというところで、風に煽られ身体が翻り、再び二人との距離が広がった。必死に伸ばされたオヨンコアの手は落ちてきた荷物に遮られる。わずかに見えたアンナの顔には未だ動揺が色濃く表れていた。眼は見開かれ、瞳の焦点は定まっていない。頬が揺れ、背は丸まり、オヨンコアの身体に引っ掛かるようにして手脚をたなびかせている。
「アンナ!」
必死に彼女の名を呼んでみても、気付く素振りさえない。
しばらくの間、ウィレムたちは変わらない景色のなかで無暗にもがき続けた。いつの間にか自分たちの下に白く巨大な影が現れたことも、すぐには気付かなかった。
「おいお前ら、下を見ろ。雲の親玉だ」
最初にそれを発見したのはイージンだった。既に落ち続けることに慣れてしまったのか、普段の声色に戻っていた。
ウィレムが腕を振って向きを変えると、白雲を塗り固めたような塊が辺り一面に広がっていた。何かをする術も時間もなく、ウィレムたちは無抵抗でその入道雲に呑み込まれた。
陽光が届かない薄ぼけた世界を切り裂いて進む。時折水の粒が肌に当たり、刺すような痛みが襲った。重い空気の所為で呼吸が滞り、息が苦しくなる。だが、視界を占めた白はすぐに失せ、代わりに緑と黒の大地が現れた。
瞬間、脳裏に湧いたのは地面に激突し、バラバラになる自分の姿だった。
麻痺していた恐怖が再び腹の底から立ち昇ってくる。
慄然としてアンナを探すと、ウィレムの少し下方にオヨンコアの胸に抱きつく彼女の姿が目に入った。手を伸ばしたが届かない。大地はすぐそこまで迫っている。ウィレムに出来ることは愛しい者の名を叫び続けることだけだった。
それは奇妙な感覚だった。
地面目前で落ちる速さが和らいだのだ。水面に浮いているような、綱で中空に吊り上げられたような、そんな寄る辺のない感覚にウィレムは自分に起きたことが理解できなかった。
不思議な浮遊感に包まれたまま、ゆっくりと地面に着地する。湿った空気とむせ返る土と緑の香りがウィレムを迎えた。ぼんやりと景色を眺めると、良く育った樹木が青々とした葉を光に向けて一様に投げ出している。甲高い鳥の声と聞き慣れない虫の音が四方八方から聞こえる。アンナとオヨンコア、イージンの姿も目に入った。皆、ウィレムと同じように呆然と辺りを見回していた。
自分に何が起きたのか、自分は何処にいるのか、わからないことだらけだった。むしろ確かなことの方が少ない気がする。何の気なしに自分たちの落ちてきた方向を見上げると、さらに不可解なものがウィレムの目に飛び込んできた。
生い茂る枝葉の間、太陽を背にして女性が立っていた。ただ、立っていると言っても、彼女の足裏は何ものにも支えられていない。彼女は虚空に自立していた。
ウィレムは言葉を忘れてただまじまじと彼女を見つめた。
少し日に焼けて赤くなった白い肌に鮮やかな模様の薄衣を一枚まとい、幼びた顔に魅惑的な微笑が浮かぶ。くっきりとした細眉の間、額中央のやや下辺りに赤い小さな点が描かれていた。
アンナとオヨンコアがウィレムの視線に気付き、その先を追って同じように黙り込む。イージンさえも言葉を失っていた。
女性の形の良い唇がゆったりと開き、竪琴の調べを思わせる美しい音色が漏れる。ウィレムは彼女の話す言葉を全く理解できなかったが、耳をくすぐる音をただただ美しいと感じた。
すると彼女は両掌を合わせ、瞼を半眼に閉じると、その口から別の韻律を刻み出す。歌声に聞き入ってしまったウィレムは、彼女が歌い終わると無意識に手を叩いていた。
「これで大丈夫かな。あたしの言ってること、君らに伝わってる?」
突然意味のある音の連なりが聞こえ、ウィレムは面食らって周囲を見回したが、アンナたちの他に人影はない。
「ねえ、聞こえてたら応えてよ。ねえったら」
再度の呼び掛けは間違いなく目の前の女性から降ってきている。ウィレムは唇の震えを押さえながら、恐る恐る口を開いた。
「この声の主は君なのか。君は一体誰なんだ」
「良かった。ちゃんと通じてたんだ。あたし、シャクティ」
少し安堵したように女性が目尻をほころばせる。笑った唇の間から整った白い歯がのぞいた。