第72話 目送は怨讐とともに
コンスタンティウムの裏門を一台の牛車が静かに通り抜けた。送別を惜しむ見送りは一人もなく、城門の上に止まる鳥たちだけが、ぴちぴちと鳴きながら旅人の背を見守っている。遙か上空を行く雲が牛車の進む金角岬の最先端、そのさらに先に座すポントゥスの大穴へと彼らを追い立てるように吹き込んでいた。
「君に手綱を任せて本当に大丈夫なんだろうね」
ウィレムは幌のかかった荷台の中から御者台に座るイージンに再度念を押した。荷台にはウィレムとアンナ、オヨンコアの三人が乗り込み、旅支度以外にも葡萄酒のビンやビスケットの入った籠、干した果物などが積み込まれ、牛車が進むのに合わせて上下にしている。荷台の方を振り返るイージンの顔には、お馴染みの嘲笑めいた表情が浮いている。ウィレムは彼のその顔をどうしても好きになれなかった。
「心配しなさんな。ちゃんと無事にタルタロスまで送り届けてやんよ」
イージンは口元をほころばせ、「どうせ道筋も知らねえだろ」と鼻で笑った。彼は何でもない日常の会話にさえ、挑発的な言葉を織り込んでくる。そうやって相手を煽りたて、自分の術中に引き込むのが彼の常套手段だった。
コンスタンティウムで彼のやり口を散々目の当たりにしたウィレムだったが、頭に血が昇るのを抑えられない。イージンの言葉を否定するように、向きになってこの先の旅程を説明しはじめた。
彼らの暮らす塔は幾つかの階層に別れている。そして、各階層の大地は塔壁内部に大きく張り出し、中央が塔全体を貫く吹き抜け構造になっていた。中央の大穴をウィレムたちの階層では“ポントゥスの大穴”と呼んでいる。
ここで問題になるのが、大穴に向かって張り出した地面である。いくら塔が神代の産物だったとしても、空中に張り出した大地が何の支えもなく莫大な自重に耐えられるはずがない。大地を支え、その重量を塔壁に逃がすため、各階層の大地の下には筋交いが設けられた場所が幾つかあった。コンスタンティウムが置かれた金角岬もその一つである。塔壁外のバルコニーを通らずに階層間を往き来するには、その筋交いを伝って下階層の塔壁のなかに入り、壁のなかを降りていくのが一般的とされている。
さも見てきたように説明するウィレムだが、話の内容は先日他人から聞いたばかりの受け売りである。入り用なものを揃えるために市を訪ねたとき、コンスタンティウムと下層を往き来しているという行商人が話してくれたのだ。
「ご高説痛み入るねえ。それで、その筋交いにはどうやって降りれば良いんだい」
ウィレムと伴って市に出掛けたイージンにとって、言い負かすことは造作もないことだった。途端にウィレムは黙り込む。そこまで込み入った話は聞いていない。視線を宙に泳がせ、腕を組んでうんうん唸ってみても、答えは出ない。結局最後は頭を垂れて小声で謝る羽目になる。
「半可通なんて似合わんことするからだ。黙っておいらに任せることだな」
イージンが笑うたびにウィレムの背が丸まっていく。見兼ねたオヨンコアが鋭い視線を送ると、イージンは慌てて前方へ向き直った。
「そんな怖い顔しないでくれよ。狼のお姫さん。せっかくの美貌が台無しだぜ」
「その“お姫さん”という呼び方、不快なので止めてもらえるかしら。アナタにそう呼ばれる筋合いは一つとしてないわ」
「つれないねえ、お姫さん」
「次言ったら、二度とふざけたことを言えないよう、その喉笛喰い千切るわよ」
冷たく言い放つオヨンコアに、さすがのイージンも口を閉ざした。まさか本気で噛み付くことはないだろうが、彼女の言葉には万が一を想像させるだけの迫力が備わっている。身体に残る傷跡がそう思わせるのかもしれない。うっかり、オヨンコアがイージンの首に噛み付く様を思い浮かべたウィレムは、あまりのおぞましさに背中を振るわせた。
「おい、見てみろよ。あれで下の筋交いまで降りるんだ」
沈んだ空気を掻き消すようにイージンが前方を指差した。揺れる荷台の入口からウィレムが身を乗り出すと、金角岬の断崖と見慣れない装置が目に入った。牛車はその装置の方へ進んでいく。
近づくにつれて装置の全体像がより明確にわかるようになった。人が三人は入れそうな車輪と、そこから伸びて高所で滑車にかかる三本の太い帯、そして、滑車を経て垂れ下がる帯の先には方形の吊り籠がぶら下がっている。こんなもので本当に下に降りられるのかと、ウィレム不安を募らせた。
装置の前まで来ると番兵らしき男が二人、足早で牛車に近づいてきたが、イージンに促されるまま、ヘレネス王の証書を見せると男たちは簡単に通してくれた。
「これで下に降りるの? 途中で落ちたりしないでしょうか」
降りてくる巨大な吊り籠と足下に広がるポントゥスの大穴を交互に見ながら、アンナが不安そうにこぼした。ウィレムも改めて崖下に目をやり、唾を呑んで立ち尽くす。目が眩む思いがした。大穴の奥はただただ暗く、陽光さえも吸い込んでどこまでも深く沈んでいる。全てを呑み込む巨大な口が耐えがたい引力を漂わせながら、ウィレムたちを待ち構えているようだった。
「大エトリリア時代に完成して以来、このゴンドラが落ちたことはないってよ。余程のことがない限り、大事ねえさ」
「余程のことが起こったら?」
ウィレムの問いに、意味深な笑みを浮かべながらイージンは肩を竦める。
「指を組んで、神様の御名をつぶやく。出来るのはそれだけだな」
どこまでもふざけた返答に、ウィレムは辟易として眉を寄せた。
牛車が乗り入れると吊り籠が微かに揺れた。板張りの籠は思ったよりも頑丈で、人が歩き回った程度では軋みもしない。だが、板一枚挟んで下には何もないと思うと、へその下辺りが妙にむず痒くなる。先程まで大人しかった牛たちも、しきりに瞬きをしながら首を忙しなく左右に振っていた。
いよいよ吊り籠の柵が閉まる。荷台から出てきたアンナとオヨンコアがウィレムの側に寄ってきた。二人とも唇を固く結び、握り拳を結んで身体を強張らせている。二人を見ると自分だけが不安に思っているのではないことがわかり、気持ちが多少は楽になった。
帯の留め金が外され、車輪がゆっくりと回りはじめると、その動きに連動して吊り籠は徐々に沈んでいく。最早何をしても手遅れとなり、心を決めたウィレムは悲鳴を上げる滑車を見上げた。籠を吊す三本の帯は、自分たちの命を託すにはあまりに心細く思えた。
調度ウィレムの目線と地面が交差しようかという時、コンスタンティウムの方から小さな人影が駆けてくるのが見えた。その影は立ち塞がる番兵たちを巧みに躱すと、勢いのままに装置の上に飛び乗った。少年が飛び乗った衝撃とは別に、強く張った弦を爪弾くような轟音がして、吊り籠が傾き左右に揺れる。
「バカ、止めろ。このクソガキ」
混乱した牛たちの鳴き声に混じって、イージンが少年を罵倒する。
装置の最も高い場所、残り二本の帯がかかる滑車近くに、少年が片手で掴まっていた。ウィレムもよく知る少年である。エドムンドゥス。ナルセスに仕えていた彼は、反乱鎮圧の夜以来ウィレムたちの前から姿を消していた。
再び現れたエドムンドゥスは瞳を充血させ、震える手で刃を握っていた。
彼の刃が二本目の帯にかかり、激しい弦音とともには帯が弾ける。籠の傾きがさらに増した。
「エドモン、アナタ無事だったのね。心配したわよ。さあ、降りてきなさいな」
まだ彼のつけた傷が目立つ腕を広げ、オヨンコアが呼び掛ける。しかし、エドムンドゥスは表情を変えずに彼女を一瞥しただけだった。
少年の真っ赤な瞳は同じくらい赤い髪の持ち主に向けて一心に注がれている。
「アンナ様、貴方はぼくに言いましたね。ウィレム様に何かあったら許さないと」
エドムンドゥスの瞳が煌々と燃える。視線に射られたアンナは頭を抱えてうずくまり、喉の奥からざらついた絶叫を発した。まるで亡霊を怖がる子どものように、瞼を閉じて耳を塞ぎ、エドムンドゥスの方を見ようともしない。
「同じ言葉を送ります。貴方がナルセス様を殺したこと、ぼくは絶対に許さない」
言うや否や、エドムンドゥスの刃が最後に残った帯を断ち切った。
視界のなかで帯の繊維が一本ずつゆっくりと爆ぜていく。
支えを失った吊り籠はウィレム一行を乗せたまま落ちていった。遙か彼方、大穴の底を目指して。