第69話 反乱の結末
小さな執務室のなか、灯火で照らし出される五人の男たち。部屋に満ちる空気は粘るように彼らの身体にまとわりつき、重く湿って垂れ込めていた。
ウィレムはイージンの言葉を再度頭のなかで反芻した。イージンはタルタル人が遣わした交渉人であり、貢納と引き換えにタルタル人がヘレネスを襲わないという提案を持ってきた。そして、交渉成立後もタルタル、ヘレネス間の良好な関係を維持するため、親タルタル派の人物をヘレネス王の側近にするよう勧めたのだ。その人物として、彼はベリサリオスを指名した。だがその提案を受け入れれば、ベリサリオスは異民族を嫌うナルセスと対立することになるだろう。
「ナルセスを、友を裏切れというのか」
ベリサリオスの声が震えていた。
「またそれか。随分と評価しているようだが、あの男はダメだ。目が凝って何も見えてない。今のヘレネスにはなあ、異人の進入を防ぐような力は残ってないんだよ。そうですよね、陛下」
ヘレネス王は黙ってゆっくりと頭を垂れた。それを見て、イージンが鼻で笑う。
「何で陛下が即位して五十年、他国と戦争が起きなかった? 商いが盛んになって本当に民が豊かになったか? この百年、ヘレネスが新たに手に入れた土地があったか?」
イージンが話すことは一々最もだった。
ヘレネスの軍事力を支える兵の大部分は土地持ちの農民である。同時に彼らのつくる農作物が国の富の源泉だった。戦いのために兵を集めれば、従軍する農民はその間に農地を離れることになり、農作物の収穫高は落ち込む。そうやって農民が衰え、戦に加われる自作農が減れば、結果的に軍事力も弱まる。ジレンマのなか戦争が避けられ、平和が続いたことでヘレネスでは商業が発展した。しかし、ガリアやゲルマニアから入ってくる安価な農作物により、農村は徐々に衰退していった。自作農が減り、以前の軍制を維持できなくなっても、商業の繁栄には治安を守ることが必要である。詰まる所、足りない兵を補うために異民族傭兵の雇用が考え出されたのだ。ナルセスの反乱はこの流れに逆行するものだった。
「わかっただろう。いや、あんたは初めからわかってたはずだ。ヒッピアスとナルセス、馬鹿はどちらかってね。おいらに言わせりゃ、両方救いようがねえが」
「それでも、あいつは出来ると言った。民を蛮族の脅威から救うのだと」
「あんたもしつこいねえ。ナルセスがなんだ。所詮、何も知らない農民上がりじゃないか。マレイノス家の嫡子が気に掛けるような人間か」
そこまで言って、イージンは細い目をさらに細めた。そして、膝を打ちながら、ケラケラと声を上げて笑った。
「いやあ、そうか。農民上がりだからこそか。名門出のあんたが、単なる農夫の息子に敵わないんじゃあ、立つ瀬がないもんなあ。あいつは特別じゃないといけないってわけだ」
高笑いするイージンを後ろからレオポルドが取り押さえる。そのまま床に俯せに組み伏せた。
「もう十分だ。それ以上喋るといくらお前でも許さんぞ」
「何を向きになってんだ、レオ。これからが良いところなのに」
未だ軽口をたたくイージンの顎にレオポルノが指をかける。顎を掴んだまま思い切り持ち上げると、イージンの頭蓋骨が上向き、反った頸が軋んで悲鳴を上げた。顔を真っ赤にしたイージンは手足をばたつかせて抵抗したが、徒労に終わった。
その時、扉の向こうに人の気配が現れた。羽虫がよろよろと飛ぶような微かな気配は、そのまま控え室を通り抜け、ゆっくりと執務室の敷居を跨ぐ。気配の正体はナルセスだった。
彼の姿に皆息を呑む。
左肩から右脇腹にかけて太い一本の溝が刻まれ、その部分の板金が拉げて肉に食い込んでいる。鎧の隙間からは絶えず血が滴り、彼が脚を引いて進むと、その後ろにワインレッドの線が残った。
倒れ込むナルセスを咄嗟にレオポルドが受け止めた。
「ナルセス、お前どうして。何があったんだ」
歩み寄るベリサリオス。足下は覚束ず、踏み出す脚の方向に上体が揺れ、手は何もない宙を掴んだり放したりしている。
「ものの見事にやられたよ。手加減なし、今日こそは完敗だ」
「嘘を言え。お前が負けることなど、あるはずがないだろう」
掴みかかろうとするベリサリオスを、沈痛な面持ちのレオポルドが押し留める。それでもなお、ベリサリオスはナルセスの身体に手を伸ばした。
「悪いな。この有り様では皆を動揺させてしまう。後の指揮はお前に任せたい」
「何を言っている。お前が言ったのだろう。成功する、我らは勝利すると。皆、それを信じればこそ、ここまでお前に従ってきたんだぞ」
「成功させるさ。お前に任せれば何の心配はない」
「駄目だ、駄目だ。お前だから無理が通せる。お前に不可能はないのだろう」
「私だって人の子だ。一人では無理なこともあるということだな」
ベリサリオスの膝が折れ、木の実が枝から落ちるように、力無く尻もちを突く。目は宙を泳ぎ、虚ろな口からはぶつぶつと呪文のような言葉が出た。
皆、それぞれに狼狽え動きを止めるなかで、一人だけ身体をくねらせる者がいた。するするとベリサリオスに這い寄ると、耳元で生温かい息を吐く。
「目の前に謀反人がいるぞ。陛下を守らなくちゃな。今のうちに片付けてしまおう」
ベリサリオスの瞳がぎょろり動き、支えられて立っているナルセスの姿を捉える。イージンの言葉は甘美な響きとなって、ベリサリオスが心底深くに沈めた業を的確に刺激した。
「大丈夫だ。今ならあんたでも、ナルセスに勝てるぞ」
その言葉が耳に入るやいなや、ベリサリオスは天から糸で引っ張られでもしたように立ち上がった。そのまま滑るように進むと、ナルセスの前に立つ。
嫌な予感がした。飛び切り醜悪で、しかも現実味を帯びた予感である。
「駄目です、ベリサリオス殿。落ち着いて、考え直して」
必死に絞り出したウィレムの声も、彼の耳には届かない。
ベリサリオスの見つめるナルセスは、か細い息を吐き、気怠げに視線を彷徨わせている。顔は蒼白で、自慢の巻き毛は乱れていた。腕は力無く肩から垂れ下がり、闘技会の勇姿が嘘のようである。
「こんなものだったか、お前の正体は。まるで取るに足らない人間ではないか」
ぼそりとつぶやくと、ベリサリオスはナルセスの身体に自分の身体を預けた。しばらくして、抱き合っているように見えた二人が離れる。離れ際、ナルセスの胸から赤く染まった刃がぬるりと引き抜かれた。
「反乱の首魁ナルセスは討ち取った。ニケフォロス、お前は至急部下を率いて残党を押さえてこい」
抑揚のないベリサリオスの命令に、束の間、レオポルドはその瞳をのぞき込んでいたが、支えていたナルセスの身体を床の上に置くと、黙って足早に退出した。
やがて後宮の鳥たちが目覚めの歌を歌い始める。長い夜が明けようとしていた。