第6話 人買い問答
修道院の生活は楽ではなかった。日の出前に起床すると、日中は耕作や聖書の朗読、祈りなどに費やされ、日没後は、食事と祈りを済ませると、すぐに床に就く。自由に使える時間はほとんど無かった。
だが、ウィレムにとっては、むしろ好都合だった。何かに従事する間だけは、アンナのことを忘れられたからである。
一心に鍬を振るい、祈りに没頭した。心身は磨り減ったが、苦しくはなかった。それでも、時折アンナの泣き顔を思い出すと、胸中を押し潰されているような痛みが襲った。
「今はただ、励むことだ」
師の言葉が指針となり、支えとなっていた。
院に入って数日、隙を見て書架で調べ物をしているとアルベールがやってきた。彼もやっとの事で院長代理の雑務から解放され、寸暇を惜しんで足を運んだのだ。
「上手くやっているようだね。皆、君の噂で持ちきりだよ」
「まあ、そうでしょうね」
師の皮肉に素っ気なく返す。
院には以前からの知人も多い。彼らにしてみれば、一度俗世に帰った者が、再び院に戻ってくるなど、不謹慎極まりないと思っているに違いなかった。それでも、私語が禁じられている修道院内で噂されるほどとは、思わなかったが。
「何か御用ですか。出来ればもう少し調べ物をしたいのですが」
出立の期日まで日がない。急場しのぎだとしても、可能な限りの知識を詰め込んでおきたかった。
「あまり邪険にしないでおくれよ。ここで会えたのは、調度良い機会だ。君がどうやってタルタロスへ行くつもりか、聞かせてもらえないかな」
少々面倒だったが、ウィレムは話すことにした。どういう訳か、アルベールは外の世界の話を好んだ。しつこく訊かれるくらいならば、ここで済ませた方がましに思えたのだ。
「取り敢えず、川沿いに舟でコンスタンティウムまで行こうと思っています。あそこなら、ポントゥスの大穴も近いですから」
塔の階層を往き来する方法は二つあった。一つは、バルコニー伝いに外壁に沿って行く道、もう一つが塔中央に穿たれた巨大な穴を抜けて階下に降りる方法だ。
現状、バルコニーがアルハの狂信者たちに占領されている以上、大穴を抜ける方法しか残されていなかった。
「その先は? 考えていないのかい。随分と行き当たりばったりな旅だね」
アルベールは呆れたように首を振った。だが、その先は、伝聞でしか知り得ない世界である。ウィレムも計画の立てようがないのだ。
「コンスタンティウム辺りは、まだ商業が生きているらしいですから。市が立つなら、人も情報も集まっているでしょう。後はそこで考えますよ」
諦めにも似た笑みが口元からこぼれる。先行きが不安なのはウィレムも一緒だ。
「心許ないねえ。供の者はいるのかい。何なら院から何人か同行させようか」
いつにない気遣いに、ウィレムは何やら空寒いものを感じた。師の物言いはどうにも不自然に思えてならなかった。
「先生、僕にかこつけて、外に行こうとしていませんか」
疑いの目で、師の顔を見上げる。するとアルベールはばつが悪そうに、目を逸らした。どうやら図星だったらしい。
「先生には院長代理のお仕事があるでしょう。昔から巡礼に興味を持たれていたのは知っていますけど、行くなら僕を出汁にせず、自分で行ってくださいよ」
アルベールは目に見えて肩を落としていた。今は、彼の方が「くたびれたロバ」のようである。
「同行者は一人います。それに、コンスタンティウムには色々な市が立つそうですから、従者が欲しければ、人売りから買いますよ」
その言葉を聞いた時、師の顔から笑みが急速に引くのをウィレムは感じ取った。
「人を、買うのかい」
声の調子は冷め切っていた。だが、その細い目に、怒りの色は浮いていない。
何か気に触ることを言ったかと、思いを巡らせたがわからなかった。
「そのつもりです。身の回りの細々としたことを頼みたいので」
慎重に言葉を選んだ。何が問題なのだろうか。支払いの心配ならいらないはずである。ギョームから分不相応な支度金を貰っている。院に荷物を預ける時、師も一緒に金入れ袋のなかを確認した。
恐々とする弟子を見て、アルベールは小さくため息を吐いた。そして、今度は極力穏やかな調子を心掛けながら、再び問う。
「君も知っての通り、主は我ら人を、皆等しく創りあそばされた。それなのに君は、物として売られる人と、それを買う人がいるのは正しいことだと思うのかい」
「そ、それは……」
ウィレムは言い淀んだ。自分は今、何の問答を仕掛けられているのか。師の真意を測りかねていた。
「きっと、売られる者たちは罪を犯したのです。だから、罰として、主が人としての有り様をお奪いになられたのではありませんか」
「では、君も、私も罪を犯せば、同じように人としての有り様、尊厳を失うかい。罪人は家畜と同じかい」
その言葉を肯定するのは抵抗があった。自分が物として売り買いされるなど、想像もしたくないことだ。
「では、きっと、異教徒なのです。主の教えを拒む粗野で凶暴な異民族ならば、同じ人間として扱うことは出来ません」
「主は、信じる者しか許さないような偏狭なお方ではないよ。セーヌ家、つまりルイ陛下のご先祖も、元は異教徒だったと言われているしね」
アルベールの言は一々最もなことに思えた。ウィレムは言葉を失う。どうやら、ことは人の売り買いだけで終わらないように思えた。
頭を抱える弟子の姿に、師は胸を撫で下ろす。ここで悩めるのなら、彼はきっと大丈夫だろう。そして、最後に優しく付け加えた。
「君は、これからその異教徒・異民族の地へ向かうのでしょう。今の悩みを忘れてはいけないよ」
アルベールは元の笑顔に戻ると書架を出て行った。
その後ろ姿を、ウィレムは困惑しながら見送った。