第66話 闖入者
人の話し声で目が覚めた。
暗く湿った地下牢、“痛くない方の部屋”である。部屋のなかにいるのはウィレムとマクシミリアンの二人のみで、本来は人の声などするはずがなかった。
だが、誰もいないはずの牢のなか、闇に紛れて確かに人の気配がある。一人、二人、それ以上はわからないが、複数人いるのは間違いなさそうである。
ウィレムを連れに来た拷問係の兵たちかとも思ったが、灯りを持っていないのが不自然だった。ウィレムは息を殺し、油断なく進入者たちの声に聞き耳を立てた。
「この牢獄で間違いないのか」
男の声が密やかに空気を振るわせる。牢番の声でも拷問係の声でもない。知らない男の声だった。
「そのはずだ」
「だが、二人いるぞ」
「灯りを持ってこなかったのは失敗だったな。どちらなのか確認できない」
頭上の声から察するに、男たちは人を探すために牢獄まで来たようである。だとすれば、目的はウィレムか、マクシミリアンどちらかということだ。もし、自分を探しているのだとしたら、彼らは何者なのか。ウィレムは男たちの正体に考えを巡らせはじめた。ただし、その間も耳では絶えず彼らの様子をうかがい続けた。
思い当たる節がないわけではない。イージンは「明後日の晩に迎えにくる」と言っていた。日光の届かない地下牢では時間の感覚が曖昧になる。もしかすると、既にあの晩から二日経っているのかもしれないのだ。
名乗り出るべきかどうか思案していると、1つの足音が向かいの壁の方へ近づくのがわかった。マクシミリアンが張り付けにされている壁である。
「お宅ら、何を無駄なことで揉めてんだい」
おや、とウィレムは思った。その声に聞き覚えがあったのだ。胡散臭く、どこか他人を嘲るような口調。生理的に忌避したくなる軽薄な響き。だが、知っているはずの声の主の顔が、なかなか思い浮かばない。
「どうせ反乱軍に罪を着せんだろう。両方殺っちまえば良いじゃねえか」
大型の動物が唸るような声とともに、男のいる方から生臭い臭いが湧き出した。雫が垂れて床を打ち、牢内に満ちていた鉄錆と似た、それでいてもっと鼻を刺す臭いが徐々に広がっていく。
「おい、勝手なことをするな」
「大丈夫。どうせウィレム坊ちゃんはそっちで転がってる方でしょうよ。あっしはね、こっちのデカブツに恨みがあるんだ」
男は仲間の制止を聞こうともしない。濡れそぼった場所にものを突き入れるような音が聞こえ、それに合わせて血の臭いがさらに強くなる。
「あっしは大金持ちになる寸前だったんだ。それをこいつに邪魔されて、お宅らに捕まって、今じゃこの有り様だ。一回殺したくらいじゃ、気持ちが収まらねえ」
男はなおも、マクシミリアンの身体に刃を突き立てる。男を止めなければ、マクシミリアンが死んでしまう。彼がどれだけ剛の者であっても、疲弊しきった身体では限界がある。手脚をつながれていては抵抗することも出来ないに違いない。
だが、男の口振りからするに、ウィレムの命とて危険に晒されている。他人よりも自分の身を安じなければならない状況だった。ウィレムは後ろ手に手枷をはめられ、身体のそこかしこに傷を負っている。さらに相手は複数。自身の命を守ることさえままならない。
逃げるかとも考えたが、場所は狭い牢獄のなかである。逃げ場などどこにもない。かといって、このまま息を潜めていても、殺されるのは時間の問題だった。
男たちが距離を詰め、ウィレムを囲うようにしゃがんだのがわかった。呼吸の音がかすかに聞こえる。相手は三人である。
急に胸の辺りに冷たいものが触れた。冷気が肌の表面を走り抜ける。それが、ぺたぺたとウィレムの身体中をまさぐりはじめた。触れられる度に悪寒が走り、声が出そうになった。身体の部位を確認しているのだろう。相手もウィレム同様、完全に見えているわけではないらしい。
もしや戦えるのではないかと、一瞬思った。闇の中、見えない者同士ならば勝負の結果はわからない。しかも、相手はウィレムに意識があることに気付いていないのだ。不意を突くことが出来れば、優位に立てる。
だが、こちらは一人、相手は四人。場所は狭い牢獄である。捕まるのは時間の問題だろう。今動くのは得策でないようにも思える。
逡巡するウィレムの頭にマクシミリアンの言葉が蘇る。彼はルイのために尽くしたいと言った。その言葉は真実に思えたし、自分のなかにも同じ思いが確かにある。このまま彼の命を散らせてはならない、助けたいとは思っても、どうすれば彼を救えるのか、妙案は浮かんでこない。
そうこうしているうちに、冷たい手の平がウィレムの頬に触れた。そのまま滑るようにして下顎から首へと移動する。
逃げる機会すら逸したのか。悔やむウィレムの耳元で突如として声がした。
「随分な窮地じゃないか。助けてやろうか」
全く気配を発さずに、暗闇のさらに陰のなかから声だけがする。どこか楽しそうなその声はイージンのものだった。
返事を考える余裕はない。既にもう一本の手がウィレムの首に掛かっている。
「頼む、助けてくれ」
ウィレムの首を絞めようとしていた手が一瞬止まり、すぐに絞める力を強めた。同時に人が二人倒れる音が聞こえ、首に掛かっていた手が退いたかと思うと、もう一人も地に伏した。
「何だ、何が起きてんだ」
マクシミリアンに掛かりきりだった最後の男が金切り声を上げたが、仲間の返事はない。
「助けてやった分は貸しだからな。いつか返せよ」
再び耳元で声がして、手枷の錠が外れた。腕が自由になり、久方ぶりに肩を前に回す。胸と背中で木が軋むような音が鳴った。
ウィレムはすぐに立ち上がると、壁の前で狼狽えている人影に飛びかかった。
身体を浴びせるようにぶつかり、倒れた相手の上から所構わず殴りつけた。
左手は手首から先の感覚がほとんどなかったが、気にならなかった。
じきに男は動かなくなった。
結局、闇に慣れた目でも男の顔まではわからなかった。
「そんなの放っておいてさっさと行こうぜ。おいらはこれでも忙しいんだからよ」
どこからともなくイージンの声がする。
ウィレムはマクシミリアンに近づいた。血はだいぶ流れたようだが息はある。
「イージン、彼も一緒に連れて行けないか」
返事はない。
誰もいないかのように静寂が満ちる。
「頼む。彼を救いたいんだ」
少し間が開き、鉄鎖が揺れて壁を擦る音が聞こえた。
「こいつも貸しだ。おいらの利子は高いからな」
そう言いながら、イージンはマクシミリアンを縛る鎖を一本ずつはずしていった。