第65話 彼女のなかの幼獣
「ねえ、エドモン。私たちを連れてきて、本当に良かったの」
城門を抜け、庭園を足早に横切りながら、アンナは尋ねる。アンナとエドムンドゥス、オヨンコアの三人は、反乱軍の占領している王宮のなかにいた。
進入は容易に出来た。エドムンドゥスが門番の兵と交渉したのだ。顔見知りなのか、ナルセスに会いに来たという彼の要求を番兵は受け入れ、町娘に扮したアンナとオヨンコアについても、差し入れを届けに来たという説明を疑わなかった。エドムンドゥスの普段の行いがあってのことだろう。
アンナの言葉に先頭を行くエドムンドゥスが振り返る。
「ウィレム様を助けるだけなのでしょう。ナルセス様の邪魔をなさらないなら、構いませんよ」
微笑む少年の顔に、アンナは引け目を感じずにはいられなかった。年甲斐もなく八つ当たりをしてしまったというのに、彼は笑って許してくれた。これではどちらが子どもかわからない。
「それにぼく、お礼を言いたいんです。ナルセス様に置いて行かれて、初めてウィレム様の言葉の意味がわかりました。憧れに近づきたい、肩を並べたいと思わないのかって。今ならわかります。ぼくもナルセス様のお側を離れたくなかった。共に歩む者として認めて欲しかったんだと今は気付きました」
少年の話にアンナは首を傾げる。知らない話だった。ウィレムとエドムンドゥスにつながりがあったとは聞かされていない。
「きっとウィレム様はアンナ様のことを言っていたのですね」
「それ、どういう意味」
状況を忘れ、アンナが大声を上げる。慌ててエドムンドゥスとオヨンコアが唇の前で人差し指を立てた。周りを見回したが、三人を気に止めた者はいなかった。
「いえ、ですから、ウィレム様はアンナ様と同じ場所に立ちたかった、隣にいるのに相応しい男になりたかったのではないか。そういう話です」
みるみるうちにアンナの顔に血が巡る。一緒にいたいと心底思っていたのはアンナの方だった。昔から男勝りで傍若無人なアンナは孤立しがちだった。目一杯暴れて人に怪我をさせたことがあったし、思い切り走って振り返ると誰も自分に着いて来ていない、そんなことも茶飯事だった。そんな時、寂しさと恐怖で崩れそうになるアンナの耳に、ウィレムの声が聞こえてくるのだ。どれだけ時間を掛けても、彼は必ずアンナを追いかけてきた。その姿を見るとアンナは安心するのだ。自分がどうあっても、ウィレムだけは絶対に一緒にいてくれる。その安心感が彼への恋慕に変わるまで、時間は掛からなかった。
離れたくない、一緒にいたいと思っていたのは自分だけではなかった。そのことだけでどうしようもなく嬉しかった。胸腔の中を掻き回すように、高鳴りが膨れながら身体中を這い回る。
夢心地で頭を上げると、前を歩いているはずの二人の姿が見当たらない。慌てて辺りを見回したが、それらしい人影はなかった。
きっと先に進んでいるのだろう。小走りに中庭を抜け、建物の角を曲がる。しかし、そこにいたのはエドムンドゥスとオヨンコアではなかった。
「何故君がここにいる」
中庭に隣接する小庭園。そこにナルセスが一人たたずんでいた。
「理由を教える必要がありますか」
アンナは服の中に隠した十重の重剣を確認した。ナルセスほどの相手なら、間合いなど一足で縮めてくる。戦いが始まってから剣を抜くのでは遅すぎるのだ。
アンナは距離を維持したまま、ゆっくりと右へ回った。ナルセスは構えも見せずに、視線だけでアンナを追う。
「見逃してはいただけませんか」
「大方、ウィレム君が目的なのだろう。まだ彼を手放すわけにはいかないな」
「それでは仕方ありませんね」
アンナが重剣を抜き放つ。薄闇に黒い刃が煌めいた。
「君は最初から戦うつもりだっただろう。闘技会の決着を着けようじゃないか」
ナルセスが腰を沈め、身体の横で得物を構えた。それは身の丈の倍ほどある長槍。木製の柄の先で、半ばが膨れた木の葉型の穂先が鈍色に光る。闘技会の時とは違う、本物の刃の輝きである。
「剣を抜かなくてもよろしいのですか」
「私は武芸百般に通じている。むしろ、戦場ではこちらが本分だ」
揺さぶりも通用しない。穂先は微塵もぶれず、アンナの喉元に向いていた。
さすがのアンナも槍を相手にしたことはなかった。だが、聞いた話と実物の形状から、どのように扱うのかは想像できる。自分に向けられた穂先が真っ直ぐ、最短距離で突いてくるのだ。
それならば、集中するのは最初の一突きだけで良かった。それを躱せば、ナルセスが槍を引き戻す前に懐に飛び込める。そこは剣の間合いで槍では対応できないはずだった。
目を細め、視界狭める。穂先の光に焦点を合わせた。
深く息を吸った。ナルセスがそれを見ている。
敢えてよく見えるように大きく胸を膨らませた。
相手の波長がこちらの呼吸に合いやすいようにしてやる。
誘いを掛けて、後は待つ。相手が仕掛けてきた時こそが好機なのだ。
ナルセスに動きはなかった。
先に違和感が襲い、気付くと槍の穂先が視界いっぱいの大きさになっていた。
首を振る。槍先が鼻筋と左目尻の下を裂いて眼前を通過した。
間一髪だった。だがそれで、アンナは勝ちを確信する。
跳ぶように間合いを詰めた。
距離を詰められてもナルセスは慌てない。槍を引く動作すらしなかった。
あまりに無防備な姿に、一瞬、疑問がわく。同時にうなじの辺りに痺れが走る。
ナルセスが手首を捏ねた。
何か拙い。踏み出す足を横に落とす。
脚に身を寄せるのと、アンナのいた場所に槍の柄が降ってくるのが同時だった。
肌にふつふつと粟が湧く。背中は総毛立ち、脈動は苦しいほどに速まっていた。
どこからか微かな風切り音が聞こえた。
身体を折ってその場にしゃがむと、後方から槍の尻が頭上を通り抜けていった。
先程まで目の前にあったはずのものが、何故後ろから。考える余裕はなかった。
突きが降ってくるのを地を転がりながら躱す。大きく後ろへ跳び距離を開けた。
立ち上がって、一度大きく息を吐く。
自分の手の内に引き込んだつもりが、何もさせてもらえなかった。
槍とはここまでのものか。それともナルセスだからこそ出来る技なのか。
「まさか、全て躱されるとは思わなかったよ」
アンナを見つめるナルセスの目が爛々と輝いている。獣の瞳だ。
アンナの瞳にも同種の光が宿っていた。
両者とも構えをとる。
挙動の見えない突きが再び来た。重剣で穂先をいなす。一度見た技は忘れない。
間合いを詰めて斬りつけた。
体勢を入れ替えて捌かれる。避ける動作が次の攻撃と連動していた。
肩越しに跳んでくる槍を重剣で薙ぐ。
遠心力のかかった槍の払いは重い。吹き飛ばされそうになるのを耐える。
受けながら血が沸き上がる。これほどの高揚が未だかつてあっただろうか。
楽しい。楽しい。楽しい。
血管を伝い快感が身体中を包んでいく。
突きが来た。それは既に知っている。もっと見たことのない、神経が焼けつくようなのが欲しい。突きを剣で受けずに上体だけで躱した。
不意に槍の動きが変わった。柄をしならせ、三日月をなぞるような軌道を描く。
避けられないとわかった。何かしなければ、負けてしまう。
遠くで少年の声が聞こえた気がした。その声にナルセスが動揺することはない。
穂先が頭蓋を貫く、その情景が脳内に浮かぶ。
手遅れだった。今から避けられるとすれば、人ではない。鳥や蜂の類の速さだ。
だがそれは、速く動けば避けられるということだ。
だったらいける。
今までにないほど脚に力を込めれば良い。それだけのことだった。
考えた時には跳んでいた。
地面が縮み、距離が消える。
重剣を振った。ナルセスの左肩口に重剣がめり込む。そのまま斜めに落とした。
目の前の光景がゆっくりと流れていく。
古木のなかで革を幾重にも縫い合わせたような弾力。
それがぶちぶちと潰れていく感触が右手に伝わる。
一気に斬り落とした。
ナルセスの身体が膝先から崩れるように倒れる。
アンナは刃に付いた血を無造作に振り払った。
「正真正銘、私の勝ちです。お手合わせありがとうございました」
ナルセスは言葉を返さない。
手に残った感触と戦いの余韻に浸りながら、アンナは建物の方へ歩いて行った。
後ろでナルセスに駆け寄る少年がいることに、アンナは気付かなかった。