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第64話 オヨンコア、哮る

 王宮の方角から吹く風がオヨンコアの五感に悪い知らせを伝えた。頭を覆う垂れ帽子の下では三角形の耳介がぴんと立ち上がり、小さな鼻が血の臭いに反応して小刻みに上下する。


 祝祭に舞い上がる街が少しずつ別の喧噪に塗り替えられていくなか、アンナがマレイノス屋敷に戻ってきたのは、オヨンコアとエドムンドゥスが外へ飛び出してからしばらく経ってのことだった。

 アンナは屋敷を出て行った時と全く変わらぬ格好だった。衣服には皺一つなく、借り物の装身具は美しく光を放っている。そんななか、彼女の表情だけが朝とは別ものになっていた。凛としていた目は赤く腫れ上がり、花弁のような唇は力無く開いたままで、上気した頬には涙の筋が残っている。



「ちょっとアナタ、どうしたって言うの。ご主人様は一緒じゃないの」



 アンナの様子に面食らったオヨンコアだったが、すぐに落ち着きを取り戻すと、へたれ込むアンナを問い詰めた。はじめ、駄々っ子のように頭を振り回して、話そうとしなかったアンナだったが、しつこく尋ねるオヨンコアに根負けし、(むせ)びながらも話し始めた。



「ウィレムさま捕まっちゃった。私、逃げろって言われて、そのまま。ナルセス様が反乱して、ウィレムさまが止めに入って。私、守れなくて、私、わたし……」



 未だ混乱しているのか、アンナの言葉には脈絡がなく、断片的で、同じことを幾度も繰り返した。その中からオヨンコアが読み取ったのは、ナルセスが反乱を起こしたこと、そして、ウィレムが彼らに捕えられたことの二つだった。



「謀反ですって」



 オヨンコアは奥歯を噛んだ。唇がまくれ上がり、その間から尖った犬歯がのぞく。知らぬうちに握られた拳の中では、爪が手の平の肉に食い込んでいた。普段の聡明さをたたえた表情は消え、獣の本性が剥き出しになる。


 オヨンコアの後ろで一部始終を聞いていたエドムンドゥスが膝を折った。力無くうつむき、主人の名を何度もつぶやく。



「ナルセス様、何で、何でぼくだけ連れて行ってくれなかったのですか」



 尊敬する主人が事を為す時、自分は傍にいることが出来なかった。除け者にされ、一人置いていかれた。そんな悔しさと寂しさが織り混ざった失望感に、少年の心は虚ろに満たされていく。

 エドムンドゥスの口から出たナルセスの名は、錯乱しているアンナの耳にも届いた。雷に打たれたように跳ね起きると、少年に襲いかかり、組み伏して馬乗りになる。あっという間の出来事だった。



「そうよ。何で、何であんなことしたの。ウィレムさまの身に何かあったら、私、貴方たちを絶対に許さないから」



 少年の瞳が驚きで丸くなる。のし掛かる恩人の女性は美しい顔をくしゃくしゃに歪ませ、赤子のように声を上げていた。口のなかには人語とも思えぬ呻き声をこもらせ、握り拳で少年が背にする大地を無秩序に打つ。このまま勢い任せに丸呑みにされるのではないか、エドムンドゥスのなかにそんな思いが湧き起こる。顔に浮く困惑は色を変え、恐怖が血の気を消し去った。


 パシリ――


 滞る空気を裂いて、乾いた音が走り抜ける。

 左頬を押さえながら、アンナが頭を上げた。

 彼女は何が起きたのかわからない様子で、目の前に立つオヨンコアを見上げる。

 オヨンコアは続けて右頬を(はた)いた。

 呆気にとられたアンナは、頬を擦りながら自分に正対する女性を見つめた。



「子どもに当たるのはおしなさい」



 厳しい口調と鋭い眼差し。普段の高慢ちきな雰囲気は微塵もない。

 迫力に圧されたアンナは、エドムンドゥスの上から退()いて、土の上に腰を下ろしていた。未だに混乱から抜け出せないまま、口を開けて呆然としている。



「しっかりなさい。アンナ・メリノ、アナタの役目を思い出すの」

「私の、役目」

「そう。アナタはご主人様の何だったの」

「私はウィレムさまを守る剣。そう誓った。でも……」



 伏し目がちになるアンナの頬に再びオヨンコアの平手が飛ぶ。



「でもじゃないの。アナタはこんなことで折れてしまう(なまくら)だったのかしら」



 オヨンコアの言葉には傷心をいたわろうという気持ちなど、一片も含まれていなかった。そんなものは必要ないとわかっているからである。



「奪われたなら、取り返しなさい。さあ、立って。ご主人様を助けるのでしょう」



 手は差し伸べなかった。

 アンナ・メリノならば一人で立ち上がると知っていたからだ。

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