第62話 憧憬か、劣等感か
部屋を出て、広い廊下を歩きながら、ベリサリオスはため息を吐いた。
少し気が立っている。そのことをつい先程まで自覚できていなかった。他の兵たちを前にナルセスと言い合いをするなど、普段なら考えられないことだった。大事を前に動揺するなど人の器が知れるというものである。自分で自分に腹が立った。
緊迫した現状を前にしても、ナルセスは初めて会った五年前と全く変わらなかった。自信に溢れ、信じる正義を一片も疑うことがない。頑なに我が道を突き進む。
ナルセスの将器とはまさに、そのぶれの無さにあるのだろう。彼の自負は言葉と行動によって、兵たちに伝播する。彼の後ろについていけば間違いはないと人に思わせる、そのカリスマ性こそが彼の最大の武器なのだ。
それはベリサリオスが持っていないものだった。彼がどれだけ欲しても、終ぞ手に入らなかったものが目の前にある。そして、そんな自分さえも、どうしようもなくナルセスに心惹かれていることがわかってしまう。ナルセスを見ていると、胸の内で敬愛の情と口惜しさが入り混じり、冷静でいられなくなる。
再び深くため息を吐こうとした時、背中を叩く者がいた。叩かれた勢いで、丸まっていた背筋がぴしりと伸びる。
「ベリ様、お疲れですか。それとも、何か心配事でも」
一見すると屈託のないレオポルドの顔が背中越しにのぞく。その顔を見るとベリサリオスはさらにため息を吐きたくなった。
「その呼び方はどうにかならないか。呼ばれるとへその辺りがむず痒くなるよ」
歩みを止めずに、肩に回されたレオポルドの手を振り払う。雇い主と使用人の分は十分に理解しているのだろうが、ときおり、絶妙のタイミングでその境界を飛び越えてくる。それを不快に感じさせないのが彼の処世術なのだろう。
「ため息も出るさ。ヒッピアスは姿を消し、陛下からのお返事も芳しくない」
「やはり、陛下の説得は無理そうですかね」
「無理じゃない。文官どもを排除し、代わってボクら武門の家が陛下の政をお支えする。難しい要求ではないはずさ」
ヘレネスでは文武の別が明確であり、文官が戦場に介入することも、軍人が政に口出しすることも、良しとはされない慣習があった。しかし、軍人貴族が将として各軍管区へ派遣されるのに対し、上級文官は初めからコンスタンティウムで役に就き、そのまま、王の近くで政を執り続ける。必然的に国全体の実情を知らない者たちが権力を独占する構図が出来上がっていった。ナルセスは、そんな現状だから、領内に異民族を引き入れ、兵として雇おうなどという話が進むのだと考えているようだった。
「だが、陛下にお伺いを立てる必要が果たしてあるのか。詰まるところ、これは政争だ。暗殺でもなんでもやって、敵を排除すれば良いではないか。これまでも繰り返されてきたことだろうに」
「ナルセス様は潔癖ですからね」
「それがナルセスって男なんだよ、良くも悪くも」
「悪い方に転ばなけりゃ良いですがね」
「そんなことはボクがさせない。裏切り者でも出なければ問題ないさ」
敢えて語気を強めてみたが、レオポルドに動揺はなかった。
「それでは不届き者が出ないよう、部下への締め付けを厳しくしておきますかね」
飄々としたままのレオポルドの態度がどこか気に触った。さらに一歩踏み込んだことを言ってやりたくなる。
「ボクはね、裏切るならば、お前だと思っているよ」
「俺ですか」
驚いては見せるが、本心からの反応かはわからない。常にゆらゆらと揺らめきながら、決して本音をのぞかせない。それでも能力があるから扱いに困るのだ。何を命じてもそつなくこなす。馬鹿か無能ならばどうとでも扱えるが、そんな奴に貴重な私兵を任せることは出来ない。信のおけないものに力の大部分を預けざるを得ないのは、ジレンマだった。
「随分と拷問に熱心じゃないか。弟いびりはボクたちへの目眩ましじゃないのか」
「そりゃねえよ。今の俺はご主人様の忠犬ニケフォロスですよ」
眉をハの字に曲げ、不満そうな表情を見せてはいるが、一事が万事この調子では、どこまで信用出来るのかわからなかった。ナルセスのこともあり、胃が焼ける思いがする。
「今はそれでいいさ。だが、ボクがお前を疑っていることは覚えておくんだな」
「心に留めておきます。これからどちらに?」
「今一度、陛下の御座所へ行ってくる。ボクしか出来ない仕事はだからね」
レオポルドを残し、後宮へ続く通路へ足を向けてから、ベリサリオスは立ち止まった。前を向いたまま、後ろにいるはずのレオポルドに向けて言葉を掛ける。
「ボクらも色々と決断を迫られる時が近い。何が起きてもいいように、準備だけは怠るなよ」
「我ら、マレイノス兵団、ご主人様のお気に召すままに」
レオポルドの太い声が後ろから返ってきた。その声だけは嫌いではなかった。