第60話 獄中への訪問者
「君ら、面白いことをしているな」
急に聞こえた男の声に、ウィレムは身体を強張らせた。はっきりとした発音にもかかわらず、怪しくまとわりつくような響きのある、どこか不快な声だった。
振り返ると、いつからいたのか、鉄格子の向こう側にきつね顔の男が立っている。長身細躯でひょろりと長い手脚に異国の装束を身に着けた男は、その唇に薄ら笑いを浮かべていた。式典の際にウィレムの方を見つめていた男である。
「ああ、いちいち反応しなくて良いよ。見張り番に気付かれたくはないから」
口を開こうとしたウィレムを男が制する。口振りから察するに、牢獄には忍んで来たようである。ナルセスたちの仲間ではなさそうだ。
「今日はね、ウィレム君にお礼を言いに来たんだ」
「僕は貴方なんて知りませんし、お礼を言われる筋合いもありませんよ」
警戒を続けながら、ウィレムは小声で返答する。式典の時に感じた奇妙な違和感が、腹の奥の方で再び蠢きはじめていた。知らぬはずの男の顔から、確かな既視感が漂ってくる。
一方、きつね顔の男は少し驚いたように目を見開いてから、したり顔で肩を揺らした。
「本当に覚えてないのか。君、暗示に掛かりやすい体質なんだな」
「どういう意味です。何が可笑しいんですか」
「だって、おいらのこともわからないんだろ。それじゃあ、何故、自分がヒッピアスの野郎を守ったかも、わかってないんじゃないの?」
「何か知ってるのか。貴方は何を知っているんだ」
男の言葉に動揺し、思わず口調が崩れた。自分でもわからない、不可解な行動の理由を眼前の男は知っている。そう思うと心穏やかではいられなかった。
「んふ、その感じ、好きだよ。お堅い口調より、そっちの方がしっくりくる」
男の笑みが初めて自然なものになる。
「それでは改めて自己紹介をば。おいらの名前は、ユァン・イージン。今はまあ、レオの友人と言うことで、お見知りおきを」
「レオというと、レオポルド兄さんのこと?」
「そう、レオポルド。おいらと君を引き合わせたのもあいつだ。あの日、一緒に酒を飲んだじゃないか」
言われてみれば、レオポルドと飲んだ日、店を移した先で誰かと会ったような気がする。しかし、記憶がおぼろげで思い出せない。アンナとオヨンコアに聞かされた話では、その晩ウィレムは酩酊状態で帰ってきたということだった。
「ごめん。その日のことはよく思い出せなくて」
酒に酔って会った相手を忘れるなど、情けないにも程がある。ウィレムは申し訳なさそうに背を丸めた。
「別に気に病む必要はない。あの晩はこっちが色々仕掛けたからな」
「なんだって」
咄嗟に出した大声で、喉が開いて咳が出た。まだ大きな声を出すと痛みが走る。イージンの細い手が格子の間を抜けて、咳き込むウィレムの口をふさいだ。
「おいおい、静かにしてくれ。ちゃんと全部話してやるから」
イージンはウィレムの咳が治まるのを待って手をどけると、一度辺りをうかがってから、話しはじめた。
「君は覚えてないだろうが、あの日、おいらと君は約束をした。祝賀式典で騒動が起こるから、その時には、何があろうと大臣ヒッピアスを守るって約束をね」
「そんな約束、した覚えはないよ」
狼狽え、掠れた声を出すウィレムを見て、イージンの顔には再び不気味な微笑が表れる。赤子が見たならば、泣き出してしまいそうな、相手の不快感を煽る類いの表情である。
「そりゃ、そうなるように仕向けたからね。あの時、君はそうとう酔ってたし、おいらの仕組んだ薬も良く効いた。君はおいらの暗示に掛かり、知らぬうちに約束を守っていたって寸法だ」
「それじゃあ」
「そう、全部おいらの掌の上さ。君がこんな目にあってるのも含めてね」
いよいよイージンは声を出して笑いはじめた。腹の底が煮立っていたが、ウィレムに出来るのは鋭くにらみつけることくらいだった。
「おい外道、その下品な笑いを即刻止めろ。耳が腐る」
二人のやりとりを黙って聞いていたマクシミリアンだった。身体を縛る鉄鎖を引きちぎり、今にも飛びかかりそうな勢いで、イージンに鋭い視線を送っている。
「こりゃ失礼。憎まれ口は性分なんでな。まあ、お隣さんもお怒りのようだから、今日のところは用件だけ伝えて、さっさと去るとしよう」
肩をすくめたイージンはマクシミリアンに挑発的な視線を送りつつ、ウィレムの耳に顔を近付けた。
「よく働いてくれた礼に、君をここから逃してやろう。レオからも君のこと、よろしく頼まれているしな」
驚きと不信から相手の顔を見返すウィレムに、イージンは、指の長い、骨張った手を差し伸べた。
「その気があるならこの手を取りな。そしたら、明後日の晩に迎えに来てやる。なあに、今回は、何も仕掛けてないから心配するな」
急な申し出にウィレムの頭は混乱していた。どう考えても、信用のおける相手ではない。だが、脱出の機会が他にあるかというと、あてはなかった。
ウィレムは躊躇いがちにイージンの手を取った。氷に触れた時のように、手の平から冷気が染みてきた。