第5話 修道院へ
ウィレムがフランデレンを立つ日は、すぐにやってきた。
限られた時間であったが、出来る限りの準備は整えた。領地の事は祖父と弟たちに任せてあるし、家の事は母親が取り仕切ってくれるはずである。あいさつ回りも全て済ませ、少ない知人には、もしもの時のことを頼んでおいた。
皆、晴れやかに送り出してくれた。ただ、母親だけが涙ぐんでいたのが気掛かりだった。
本来はさばけた気性の人である。
その母が、出発の時だけは、ウィレムを抱きしめて放さなかったのだ。どこかで、これが今生の別れになると感じていたのかもしれなかった。
後ろ髪を引かれながら、ウィレムは修道院へ向かう道を急いだ。
修道院は、王城ルテティアとフランデレンの中間からやや東に行った所にあり、林の中に静かにたたずんでいた。ウィレムが十三歳から暮らした場所で、ガリアではそれなりに名が通っている。
修道院を囲む木々の並木が見えた所で、何かが懐から落ちて、道端を転がった。
拾おうとしゃがみ込むと、それは一角獣を刻んだ銀のブローチだった。アンナから返された後も手放せなかったものだ。
これを見る度に、アンナのことを思い出してしまう。
いっそのこと、ここに置いていこうかとも考えた。
逡巡するウィレムの脳裏にアンナの顔が浮かぶ。端正な顔を歪ませながら、潤んだ瞳で自分をにらみつけていた。
胸を突かれたような痛みが襲ったが、ブローチを捨てることは出来なかった。
ウィレムはブローチを拾うと、足取り重く歩き出した。目的地は目の前だった。
修道院に到着するなり、ウィレムは院長室に通された。
何もない部屋だった。剥き出しの石壁と石の床、古びた木机と、それを挟んで粗末な長椅子が二台あるだけである。掃除は行き届いていたが、もし扉が鉄格子なら、牢屋と見間違えても不思議ではない。
片方の椅子には黒い修道服の男が腰掛けており、ウィレムを迎え入れた。
「やあ、久しいね。君と会うのは十年ぶり、それとも二十年ぶりくらいかな」
「アルベール先生、僕はまだ十八ですよ。お会いするのは二年ぶりです」
以前と全く変わらぬ師に、ウィレムは苦笑まじりに挨拶をした。青白いのっぺりとした面長の顔も、語尾の母音が薄れていく話し方も、修道院を出た時のままである。
「いや、悪いね。近頃、細々とした雑事に追われっぱなしで、時間の感覚が麻痺しているんだ」
アルベールは大袈裟に、肩を鳴らしてみせた。
「院長になられたのですね。おめでとうございます」
「何がめでたいものか。こう忙しいと思索にふける暇も無い。それから、私はあくまで院長代理だよ」
アルベールは怨めしそうに首を振った。一見すると軽薄そうだが、これでも名うての聖職者である。彼に教えを請いに、別の教区から人が尋ねてくることもあった。
向かいの椅子に座るように促しながら、アルベールは訪問の用件を尋ねた。
ウィレムは、事前に受け取っていた旅の証文を彼に渡した。
「なるほど、僧侶に化けようなんて、王命とは言え、随分と罰当たりな話だね」
アルベールは、終始詰まらなそうに説明を聞いていた。元から細い目をさらに細め、時にはあくびや伸びまでした。よく知る間柄とは言え、王命を帯びた者への対応とは言いがたい。
「本来教会は世俗の権力なんて相手にしないんだけどね。ルイ陛下の頼みとなると、無下には出来んよな」
師の態度に一抹の不安を抱えていたウィレムは、受け入れてもらえることに、胸を撫で下ろした。流石に聖書の文言くらいは空で言えたが、儀式や慣習には不案内な事も多い。院に身を置けるならば、その間に不安も解決出来るだろう。
ふと、先程の師の言葉に気になるものを感じ、ウィレムは尋ねた。
「そういえば、意味深な言い方でしたよね。ルイ様だから特別といった風な」
「ああ、君は知らないのかい。ルイ陛下が即位する時、教皇様が後ろ盾になったのさ。それ以来両者の蜜月は続いてる。教会にとっても、益がある取引だったんだよ。よく言えば、不満分子への人身御供、悪く言えば、傀儡って所だね」
両方とも悪く言っている、という指摘をウィレムは飲み込んだ。一事が万事、師の話に一々つっこみを入れていたら、時間がいくらあっても足りなくなる。
諦めて部屋を出ようとするウィレムの背に、アルベールが声をかけた。
「ウィレム君、くたびれたロバみたいだ。背中が曲がっているよ」
振り返ると、アルベールはうってかわって真剣な表情をしていた。聖職者としての師の顔がそこにあった。
「君が何を悔いているのか、私は知らないし、訊きもしない。ただ、下ばかり向いていてはいけないな」
その声は確かな残響を響かせながら、冷たい石壁に浸みていった。
「君は、あまり優秀な子ではなかったけれど、眼差しだけは常に高い所を向いていたじゃないか。前を見なさい。今はただ、励むことだ。一つ一つね」
指摘されて、咄嗟に背筋を伸ばすと、視界が開けた。思いの外広い天井にも、暗いと思っていた室内の所々に光が差し込んでいるのにも、初めて気が付いた。
思っていた以上に、鬱ぎ込んでいたのかもしれない。それを見抜く師の慧眼に改めて敬服しながら、ウィレムは院長室を出た。