第57話 痛みの時間
冷や水が頭皮を打つ衝撃にウィレムは目を覚ました。ゆっくりと瞼を持ち上げると、視界の上の方から赤い光が同心円状に広がり、暗がりに染みをつくっている。濡れた肩に冷気が直接触れ、ウィレムは小さく身震いした。ひやりとした石の床に皮膚が擦れた。
自分が今どこにいて、どういった状況に置かれているのか、思い出そうとしたが、頭に霧がかかったようで判然としない。頭上からこぼれてくる話し声も、ぼんやりとしていて上手く聞き取れなかった。
「おい」
急に髪を引っ張られ、直後に耳元で怒鳴り声がした。
ウィレムの頭頂部を鷲掴みにした男は、うつぶせになっている上体を勢いまかせに引き上げる。ぷちぷちと髪の毛が抜ける感覚の後、強引に反らされた背中の表面に鈍い痛みとわずかな熱が吹き出した。
「もう一度訊くぞ。貴様は何故大臣を守ろうとした。奴とどんなつながりがある」
目の前の男が厳しい口調で問い詰める。飛んだ唾が鼻の頭にあたった。
痛みが徐々に記憶を呼び覚まし、頭にかかった霧が散っていく。
バラ園でアンナを逃した後、ウィレムはナルセスたちに捕らえられた。ナルセスはウィレムを殺そうとはしなかったが、かわりに尋問を命じた。地下室らしき場所で大臣との関係を尋ねられ、無関係だと言うと顔を叩かれ、守った理由がわからないと答えると棒で打たれた。大臣の居場所については知る由もない。気を失うと、先程のように頭から水をかけられた。
一向に喋ろうとしないウィレムに、尋問を任された二人の兵は苛立ちを募らせているようだった。その証左に叩き方が雑になってきている。だがどういうわけか、殴る蹴る以外の拷問を受けなかった。よく見れば、相手はウィレムとたいして歳が離れていないようである。拷問の経験などないのかもしれない。
急にへその穴に熱した鉄棒をねじ込まれたような感覚が襲い、ウィレムは冷たい石の上をのたうち回った。
ウィレムの腹を蹴り上げた兵は、その脚を転げ回っているウィレムの背中に降ろす。踏まれた背骨が軋み、悲痛な叫びを上げた。
「どうだ辛いだろう。さっさと吐けば、こんな思いをしなくて済むぞ」
男はやや前傾し、脚に重さをかけた。ウィレムの喉から意味をなさない悲鳴が飛び出したが、それでも男は脚をどけなかった。
「俺たちだって、こんなことするためにナルセス様についてきたんじゃない。さっさと全部吐いて、俺らをこの陰気な仕事から解放してくれ」
いつの間にか、踏みつけてくる脚がもう一本増えていた。後ろ手に手枷をはめられているウィレムには、身体をよじって致命傷を裂けることしか出来なかった。
少し前から地面越しに誰かの足音が伝わってきていた。こつん、こつ、こつという不規則な響きが、少しずつだが確実に近づいてくる。足音はウィレムのいる部屋の前で止まった。
「お前ら、やり過ぎるなよ。何も聞き出せずに死なれたら、尋問の意味がない」
太くてよく通るその声は、ウィレムのよく知る男のものだった。
「ニケフォロス様、こんな所までどういったご用件でしょうか」
兵たちはウィレムを蹴る脚を止めると、男にかしこまって挨拶した。
「なに、ちょっと様子見にな。それより、これ以上やるとそいつ死んじまうぞ」
地べたに頬を埋めたまま、狭まった視界の中でウィレムは兄の影を探した。声はすぐ近くから聞こえてくるが、小さな灯ではその姿をとらえることが出来なかった。
「もう虫の息じゃねえか。死なれたら元も子もないんだ」
レオポルドの声が話ながら移動していく。ウィレムの横を通り抜け、後ろへ回り込んだ。二人の兵士は黙ってその場に立っているようだった。
「痛めつけるにしても方法を考えろ。人質は生かさず殺さずが鉄則だ。覚えとけ」
レオポルドがしゃがみ込む気配がした。分厚い手の平が背を撫でる感触に、ウィレムは小さく息を吐いた。この責め苦もやっと終わる、そう思って気持ちを弛緩させた瞬間だった。
古い布を引き裂くような音をともなって、左手小指の根元に激痛が走ったのだ。指がもげたかと思い、ウィレムは叫び声を上げようとした。
しかし、胸は収縮しているのに、押し出された空気が喉の奥でつっかえて出てこない。小さな呻き声を口内でくぐもらせながら、シャクトリムシのように身体をよじった。
「こうやって痛みだけ与えるのがこつだ。どうした、何を青い顔してる。明日からはお前らがやるんだぞ」
レオポルドは捻り折った小指を手放すと、平然とした口調で兵たちを叱責した。そんな彼の様子に二人の兵は余計に表情を歪め、一歩退く。
「まったく、情けない奴らだ。今日はここらで構わんから、二人とも休んでいいぞ。こいつは地下牢に放り込んどけ。くれぐれも死なせないように気を付けろ」
それだけ言うとレオポルドは部屋を出て行った。燃えるような痛みのなか、ウィレムの意識は再び霧のなかへと沈んでいった。