第56話 バラ園の乱
バラ園は混乱に陥った。ヘレネスの臣下や各地の使節たちは右へ左へと逃げ惑い、助けを求めて口々に声を上げている。下オリエントゥス軍団を囲む国王直轄軍にも動揺が走り、足並みがそろわない。そんな直轄軍の兵たちを、ナルセスに率いられた精鋭が次々に倒していく。
「ウィレムさま、早く逃げましょう。このままだと巻き込まれます」
アンナの言葉を待つまでもなく、ウィレムの脚は動き出していた。このままじっとしていてはいけない。しかし、どこへ向かえば良いのか。考える暇はなかった。動くならば前へ。ウィレムは人の波を掻き分けて玉座の方へと進んでいった。後方でアンナの声が遠くなっていくことには、気が付かなかった。
ナルセスは真っ直ぐに進んだ。彼を拒む敵兵は足止めすら出来なかった。ナルセスが剣を振るうと、相手の武器は、或いは弾き飛び、或は砕け散った。彼が進む所に道は開け、多くの同士がその後に従う。武器を失った敵兵はその場に倒れ込み、武器を持つ者でさえ、道を開けて逃げ出した。
じきにナルセスは玉座の直下へたどり着く。そこには逃げ遅れた大臣や王の側近たちの姿があった。皆一様に身体を震わせ怯えている。ヘレネス王は静かに座したまま、眼下の混乱を見下ろしていた。
「これはれっきとした反逆だぞ」
「反逆ではない。陛下を謀り、民を喰い物にする奸臣を始末するだけのことだ」
腰を抜かしたまま、上下の歯を打ち合わせながらも抵抗の意思を見せる大臣を、ナルセスは冷たく見下ろした。
「貴様らが疲弊した民から土地を奪い、自らのものとしていることもわかっているのだ。小賢しさと口舌を頼りに私腹を肥やす罪人ども、今こそ成敗してくれる」
ナルセスが剣を振り下ろした。剣先が空気を切り裂いて走る。だが、その刃は、目標に到達する前に、金属音を上げて止まった。ウィレムがナルセスと大臣の間に飛び込み、拾った剣で振り下ろされた刃を受け止めていた。
「ナルセス殿、それ以上はいけません」
一瞬、ナルセスの黒目が大きくなり、鼻の穴が膨らむ。だが、崩れた表情はすぐに元の美丈夫に戻った。その間も刃に込められた力は寸分も弱まることはなかった。
「驚いたな。何故、君がここで出てくる」
「この人を殺せば、冗談では済まなくなりますよ」
「最早手遅れさ。それに、私がおふざけで剣を振るっているように見えるかい?」
交差する刃から伝わるナルセスの圧力が、彼の言葉に嘘がないことを告げていた。そのまま一気に押し切られ、ウィレムは剣を落として尻もちを突く。
「君こそどういうつもりだい。これは我々の問題だ。部外者の君には関わりのないことだろう」
ウィレムに向けられたナルセスの瞳に冷たい光が宿る。途端に脚の力が抜け、身体は凍ったように動かなくなった。
「我らは民を、そして、国を思って立ったんだ。大義を妨げるだけの理由と覚悟が、君にはあるのか」
ナルセスの問いに、明確に返せる答えはなかった。頭より先に身体が勝手に動いたのだ。今にして思えば、何故、ナルセスの前に飛び出したのか、自分でもわからない。
言葉に詰まったまま、ウィレムはナルセスを見上げ、ナルセスはウィレムを見下ろす。そのわずかな隙を突いて、二人の横を大臣が転がるように走り抜けた。
振り返って大臣の背を斬りつけようとしたナルセスの剣は、紙一重でとどかなかった。彼が踏み出そうとした脚をウィレムが力一杯抱え込んだのだ。
頭を上げることが恐ろしかった。今度こそナルセスはウィレムを敵と認識しただろう。すぐにでもウィレムを斬り捨て、大臣を追うはずである。自分でもわけのわからないまま命を落とすことになるのか。目を閉じると、周囲の騒動が余計にけたたましく耳に刺さった。
「ナルセス様、我が主に向けられたその剣、どうかお納めいただきたい」
騒音を裂いて勇ましい女性の声がウィレムの耳に届く。目を開けるとウィレムの前に十重の重剣を構えたアンナの姿があった。眉間に皺を寄せ、額には青筋が浮いている。目尻は吊り上がっているが、瞳には困惑の色が見て取れた。
ナルセスは足下のウィレムに剣を向けたまま、アンナに向かって正対した。にらみあう二人の間に他の兵が入り込むことはなかった。皆、二人の異質な気配を察しているのだろう。
「ウィレムさまを放してください。そうすれば、私も黙って退きます」
「私とて、この場で君と剣を交えたくはない。だが、彼を見逃すことは出来ん」
アンナが半歩、ナルセスににじり寄る。アンナの剣はあと数歩でナルセスにとどく所まで来ていた。
急に首の後ろを掴まれたかと思うと、真上に持ち上げられた。じたばたともがいたが甲斐はなく、強引に立たされたウィレムの首元に、日の光を反射する鋭い刃が添えられていた。
「こんな手段はとりたくないが、君を止めるにはこれが一番効きそうなのでな」
ナルセスの声に躊躇いの響きはない。いざとなれば、手首から先の動きだけでウィレムの命を奪うことが出来る。そのための心身の準備が済んでいるのだろう。
一方のアンナの顔には目に見えて動揺が走る。瞬きが多くなり、口を小さく開けては短い呼吸を繰り返すようになった。
「卑怯ですよ。ナルセス様らしくもない」
「その汚名は甘んじて受けよう。それでも為さねばならぬことが私にはある」
今度はナルセスが歩を進めた。同じ分だけアンナが下がる。
「さあ、武器を捨てて投降するんだ」
アンナの顔に悔しさがにじむ。だが、その表情に反して、彼女のなかで張りつめていたものが緩みかけているのがわかった。
「だめだアンナ。君は一度退くんだ。僕のことは心配いらない」
思わず叫んでいた。アンナをナルセスたちの手に渡してはならない。彼らが手段を選ばない以上、ウィレムを人質に反乱へ荷担させることも考えられた。自分の所為で彼女に望まぬ戦いを、場合によっては人殺しを強いることになるかもしれない。それだけは避けたかった。
「逃げろ。アンナ、これは命令だ」
その言葉を聞くなり、アンナは脱兎の如くその場を去った。途中で振り返ることもなかった。それは、ウィレムがアンナに初めての下した明確な命令だった。