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第51話 兄弟酒

 深い暗闇のなか、冷えた空気がずしりと肩に覆いかぶさる。煉瓦(れんが)の壁からは(かび)の臭いが立ち上り、訪れるものに不快感を抱かせた。一面の黒のなかで、一点だけぽつりと(とも)るのは蝋燭(ろうそく)の小さな炎だった。今にも消えてしまいそうな光が、赤煉瓦の壁に三つの影を映し出す。



「それでは決行は予定通りに。明日の式典で」

「うむ」

「了解」



 男たちの話し声で(ともしび)が左右に揺らめく。それに合わせて壁に映る影が歪んだ。


「そういや、闘技会の結末は本当にあれで良かったんですか」



 三人のなかで最も太くよく通る声が冷たい壁に響いて染みた。



「構わんさ。観衆を我々の側に引き込むことは出来たかもしれんが、あの場では直接相手に手を下す方法がなかったからな」



 答えたのは澄んだ美声の持ち主だった。落ち着いた口調のなかに強い自信がみなぎっている。



「彼らには他に方法がなかった。我々にはこうして二の策、三の策がある」

「あいつらのために気を使ってもらって、済んません」

「だが、彼らを巻き込むことにはなりそうだぞ。式典への列席が許されたからね」



 それまで二人のやりとりを聞いていた三人目の男が口を挟む。



「そりゃなんとも……。まあ、なんとかするでしょう。あいつも子どもじゃない」

「我らの妨げだけは勘弁願いたいがな。その時は容赦できんぞ」

「お手柔らかにお願いしますよ」



 男が笑い、話はそこで途切れた。

 一つの影がおもむろに灯の傘を出て、闇に溶ける。



「どこへ行く、ニケフォロス」

「本題はもう終わってるでしょう。この後、(くだん)の弟と約束があるんです。俺は先に失礼しますよ」



 レオポルドは靴音を響かせながら、その場を立ち去った。



「兄さんから誘っておいて、遅れてくるっていうのはどういう了見だい」

「すまん、すまん。前の用事が長引いてな」



 不機嫌そうに大衆食堂のテラス席に座るウィレムをあしらいながら、レオポルドは向かいの席に腰を下ろした。コンスタンティウムを守る二重の城壁、その一つ目の壁と二つ目の壁の間は市街地になっていて、多くの庶民が生活していた。今、ウィレムたちがいる食堂も、そんな下町の一角にある。通りには、歌い、踊り、笑い、時には喧嘩をする人々の声が満ちていた。皆、国王即位五十周年の祝祭を思うさま楽しんでいる。



「それで、僕だけ呼び出した要件はなに。こっちはまだ身体の隅々が痛いんだよ」



 机に着くなり酒壺から角杯に酒を注ぎはじめた兄を見て、ウィレムはため息混じりに頭を横に振った。



「そんな邪険にすんなよ、久しぶりの兄弟水入らずだぜ。ほら、お前も飲め」



 レオポルドの差し出す角杯を受け取ると、なかには葡萄酒がなみなみに注がれていた。こぼれそうになる酒を急いで口に含むと、舌を突く刺激に続いて口内が干上がったと錯覚するような渋みが広がった。ウィレムは思わず口をすぼめる。レオポルドの顔も情けなく縮んでいた。



「ひでえ酒だな、まったく」



 そう言いながらも、次の酒を角杯に注ぐ。相変わらず、杯を空けるのが早い。



「フランデレンの皆は元気でやってるか」

「変わりなしだよ。祖父(じい)さまは未だに馬を乗り回すくらいに元気。ヒューベルトとヤンは喧嘩も多いけど、色々手伝ってくれるようになったから助かってる。シーラは近頃めっきり女の子らしくなってきたかな」

「かぁー、それを見れないってのは残念だ。ちゃんと良い花婿を見つけてやれよ」

「気が早いなあ。シーラはまだ十歳になったばかりだよ」



 フランデレンの話をすると自然と頬が緩んだ。

 話は盛り上がり酒は進む。しかし、ウィレムもレオポルドも肝心な話には一向に踏み込もうとしなかった。

 酒壺が二つ空になった頃、二人の舌は滑らかさを失いはじめ、三つ目の酒壺が半ばになる頃には、言葉は途切れ途切れになった。



「ねえ」

「なあ」



 二人同時に口を開き、二人同時に次の言葉を呑み込んだ。



「兄さん、先に話してよ」

「悪いな」



 レオポルドは神妙な面持ちで机の上に乗せていた肘をはずした。



「親父とお袋は、どうしてる」



 ウィレムはすぐには返答できなかった。少しの間、周囲の喧噪が嘘のように二人の間に沈黙が続く。小さく唾を飲んだ後、ウィレムは静かに語り出した。



「母さんは元気だったよ。でも、僕がフランデレンを出る時、どこか思い詰めたような顔をしてた。父さんは……」



 ウィレムが次の言葉を躊躇(ちゅうちょ)しても、レオポルドは急かさない。ただ真っ直ぐに弟の目を見つめながら、黙って待っていた。



「父さんは、父さんは亡くなったよ。昨年初め、胸を患っていたみたいだ」

「そうか」

「うん」



 再び、沈黙が二人を包む。

 二年前、ウィレムが修道院から呼び戻されたのも、嫡男であるレオポルドの出奔と父親の危篤が理由だった。ウィレムが郷に着いた時には、既に父は寝たきりになっており、日に日にやつれ、骨と皮だけの姿で苦しみながら最期を迎えた。ウィレムは父の遺言によりフランデレンの(さと)を相続したのである。本来ならば、レオポルドこそが正当なフランデレンの継承者だった。


 二人ともすっかり酔いが醒めていた。顔の赤味も退いている。

 レオポルドが自分の杯を一気に(あお)った。空になった杯に酒を注ぐと、酒壺の口をウィレムの方に向ける。ウィレムは自分の杯を軽く振った。まだ十分に入っていた葡萄酒が杯のなかでたぷたぷと音を立てる。レオポルドも無理に酒を注ごうとはしなかった。



「それで、お前の話したかったことはなんだったんだ」



 新たに入れた酒を一口飲んでから、レオポルドが尋ねた。



「兄さんはなんでフランデレンを出てったのか訊きたかったんだ」

「そんなことか。ガリアの王位継承争いがあっただろう。あれで嫌気が差したんだ。どいつもこいつも、次の王様決めるのを口実に、あからさまな権力争いをはじめやがった、親兄弟で殺し合ってよ。あんな連中とは関わりたくなくなったんだ」



 どこか遠くを見るような目で、レオポルドは話をした。



「そんなわけがあったんだ」

「そんなわけがあったんだよ。お前らと殺し合いなんてまっぴらだからな」



 酒が再びまわってきたのか、レオポルドは赤くなった顔で白い歯をのぞかせた。



「僕はてっきり、テレーザ姉さんを追いかけて行ったのかと思ったよ」

「なんでテレーザの名前が出てくるんだよ」

「だって兄さん、姉さんに惚れてただろ。嫁にするってよく言ってたじゃないか」



 悪戯ぽく目を細めて笑い返す。酒の所為か、いつもより舌が調子に乗っている気がした。普段は自重する軽口も兄が相手なら平気で出てくる。


「くだらねえこと言ってんじゃねえよ。昔の話だろう。それよりお前、タルタロスに行きたいんだってな。ベリサリオス様から聞いたぞ」



 酔った頭にかかる薄ぼけた(かすみ)の外側で、理性が警告を発した。ベリサリオスにはあくまで伝道の旅だと伝えている。おかげで、闘技会出場を頼んだ時には破戒僧扱いされたものだ。それでも、ガリア王がタルタル人と同盟を結びたがっているという情報は公にしない方が良い。ウィレムはそう判断した。

 だがレオポルドは、ウィレムが僧侶ではなく、世俗の領主であることを知っている。深く尋ねられれば誤魔化しきれない。

 返答を思案するウィレムを横目に、レオポルドはのそりと立ち上がった。



「店を変えるぞ。タルタロスに行くなら、うってつけの奴を紹介してやる」



 追及のないことに胸をなでおろしたウィレムは、兄に続いて店を出た。

 結局、酒壺は二人で四つ空にした。

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