第50話 強者たちの王
砂巻く風が円形闘技場のはらむ熱を吸って、金角岬からポントゥスの大穴に吹き込む。太陽は半ば傾き、光帯の色も白から緋にうつりかけていた。塔壁から離れたヘレネスでは春先から初夏にかけてのこの時期は、寒さの残る時間帯に入っている。だが、円形闘技場の周辺だけは火の点いた炭のように、いつまでも熱を放ち続けていた。
ウィレムは額の汗をぬぐった。彼らのいるアリーナの入場口には、他の出場者たちも姿を見せ始めていた。皆、身体のどこかしらに傷を抱えている。それでもここまで来たのは、自分たちの勝者をその目で見定めるためだった。
アンナをアリーナに送り出した時、ウィレムは「信じてるよ」とだけ伝えた。彼女は短く「勝ってきます」と答えた。
既にアリーナには両雄が姿を見せている。観客席から地響きのような声援が飛ぶ。会場中がこれから始まる戦いに胸躍らせていた。
片や、ヘレネス中に名を轟かす救国の英雄。この日も圧倒的な剣技を見せつけてここまで勝ち進んだ実力者、ナルセス。
片や、凛とした美しさとその容姿にそぐわぬ力を示し続ける異国の女戦士。観客の一部では伝説に謳われるアテナの化身と噂されはじめているアンナ・メリノ。
アリーナの中央に立つ二人に会場全体の視線が注がれる。大歓声を裂いて、甲高いドラの音が打ち鳴らされた。
どちらからともなく剣を抜いた。
互いに引き合うように二人の距離が縮まっていく。
不意に、アンナとナルセスの間で何かが光った。
一拍遅れて、金属同士がぶつかり合う澄んだ音色が激しく空気を振るわせた。
一合目からとどまることなく、二合、三合と二本の剣が打ち合い、火花が散る。
打っては受け、弾いては突き、互いに相手の急所を目掛けて攻撃を繰り出す。攻めから受け、受けから攻めの変化に淀みがなく、一見しただけではどちらが優勢か判断できない。
「いやいや、頭が下がるね。まったく」
アリーナの二人に目を向けたまま、レオポルドが頭を掻いた。
「わかるの、兄さん」
オヨンコアに肩を借りたままの状態で、同じく視線をそらさずにウィレムが尋ねた。ウィレムには二人の動きを目で追うのが精一杯だった。
「わかるってほどじゃない。わかるのは、二人とも超人だってことくらいだ」
レオポルドの声は興奮の所為か弾んでいた。
「あれだけやり合いながら、二人ともまだまだ余裕じゃねえか」
いつの間にか、聞こえてくる金属音の調子が変わっていた。坂道を駆け上がるような早くて単調なテンポから、所々で拍子に長短が混ざりはじめている。
アンナの攻撃に強弱や牽制が入っていた。ナルセスは涼しい顔で受け返す。
「じゃれ合ってやがる。互いに相手を試すようなやりとりだぜ、あれは」
「実際、楽しいんだと思うよ」
ウィレムの声がかすかに濁るのを、レオポルドの耳は聞き逃さなかった。
「なにお前、ナルセス様に嫉妬ってんの?」
「そっ、そんなんじゃないよ」
はじめてアリーナから目をそらしたウィレムは、いやらしい笑みをつくるレオポルドをにらみつけた。
「どう違うんだよ」
「だって、アンナ笑ってるじゃないか」
戦っているアンナは目を見開き、口を開けて笑っていた。アンナだけではない。ナルセスの顔にも同種の表情が浮いていた。人によっては狂気の相と受け取るかもしれない表情である。
「僕がアンナにあの表情をさせられたのは、最後の一瞬だけだったから」
今はそれが自分の一番奥底にあった望みのように思える。彼女の最も美しい姿を自分の力で引き出したい。あの表情を自分一人で独占したい。それこそが、自分が彼女の力に憧れ、いつまでも追い続ける理由なのかもしれない。アンナの満面の笑顔を前に、ウィレムはそんなことを考えていた。
「まあ、アンナにとってお前は特別だからな。踏ん切りがつかなかっただろうよ」
既にアリーナへ目を戻していたレオポルドは、弟の頭を軽く二度叩いた。
「お前、どっちが勝つと思う」
「アンナ」
「ナルセス様は俺に勝った男だぞ」
「それでも、アンナが勝つよ」
ウィレムの口調には一点の曇りない。確信というより信仰に近いものがある。
アンナとナルセスの一進一退の攻防は息つく暇もなく続いた。
千変万化のアンナの攻撃をナルセスは正確に受け止め、適切に切り返す。まるで水車と石臼のように、二人の別々の動きが連動した一つの全体を構成していた。
どれほど時間が経ったのか、空の端に藍がにじみだし、闘技場の燭台に火が灯った頃、永遠とも思えた戦いにも終幕の時が訪れた。
ナルセスの一撃をアンナが払いのけた時、澄んだ金属音に乾いた異音が混じった。二人の剛力に剣が先に音を上げたのだ。飛び散る破片に灯の光が乱反射する。
一瞬、ナルセスの動きが止まった。
アンナの動きは止まらなかった。
砕けた刃を気にも留めず、アンナが思い切り地を蹴る。
迫るアンナを前に、ナルセスの身体から覇気が抜けていくのがわかった。
アンナの残った刃がナルセスの首筋に添えられる。会場を静寂が支配した。
我に返ったように三度のドラが鳴ると、円形闘技場は喧噪の渦に包まれた。