第49話 決戦を前に
「兄さん、こんな所で何をやっているんだ」
戦いを終え、ナルセスとともにアリーナを後にしたレオポルドを、ウィレムは早々に捕まえた。控え室までの薄暗い廊下に、ウィレムらしからぬ刺すような叫声が響き渡る。レオポルドはウィレムと視線を合わせないようにしながら、わざとらしく顎髭をさすった。
「なっ、なんのことやら」
「しらばくれる気。そんな似合わない髭を生やそうと、いくら髪を伸ばそうと、僕が兄さんを見間違えるわけないじゃないか」
ウィレムの目がさらに鋭さを増した。両肩を支えるアンナとオヨンコアのことも気にせずに、レオポルドに喰ってかかる。
「どうも話が見えないんだが、この男はニケフォロス。ベリサリオスの所で私兵たちを束ねている者だ。今日はあいつの代理で闘技会に出ていたんだ」
優美な巻き毛を掻きあげながら、ナルセスが二人の間に入る。彼もウィレムの豹変ぶりには困惑しているようだった。それでもウィレムは止まらない。
「名前まで変えたの。父さんに貰った名前はどうしたんだよ」
それまでは言われるままに、視線を宙に泳がせたり、頭を掻いたりしていたレオポルドだったが、観念したのか、ウィレムの方に向き直ると彼の頭を両手で押さえた。
「うるせえな。家を出た人間がいつまでも貰った名前を名乗れるかよ。お前だって、ウィリアムなんて言う何のひねりもない偽名使ってたくせに」
そのままウィレムの髪をぐしゃぐしゃに掻きまわす。お陰でウィレムの髪は、動物が踏み荒らした後の茂みのようになってしまった。
「やっぱりレオなんだ。似ているなとは思ってたのよね」
「おう、アンナ。ちょっと見ない間に、また男前が上がったじゃねえか」
歯を見せて笑うレオポルドのすねを、アンナは思い切り蹴り上げた。鎧の鉄板が鈍い音を上げる。すね当てには大きなへこみが出来ていた。
誰からともなく笑いが起きた。それはフランデレンでの遠い日々を思い出してのことだった。ウィレムに去来する懐旧の思いは、初夏の陽光のように温かく、土臭ささを感じるほど素朴で、それでいて胸を強く締めつけるものだった。
三人の笑いが途切れるタイミングを見計らい、ナルセスが声をかけた。
「実の弟に正体を告げないというのは、あまりに他人行儀が過ぎるのではないか」
「いえ、今の俺はマレイノス家に仕えるニケフォロスですから」
「けじめか」
「そんな格好良いもんじゃないですよ。単に照れ臭くて」
レオポルドは鼻の頭を指先でこすった。ウィレムの目には、歳の離れていない相手に敬語を使う兄の姿はどこか新鮮に映った。
「少しよろしいかしら」
それまで黙っていたオヨンコアが初めて話に加わった。
「こりゃまた、えらい別嬪さんじゃねえか」
「ウィレムさまにお仕えしております、オヨンコアと申します。お見知りおきを」
オヨンコアは空いている方の手で服の裾を摘まむと、主人の兄に向って慇懃に一礼した。
「それで、何か言いたいことでもあったの」
「どうということはないんですが、今ここに闘技会を勝ち抜いた四人が揃っているわけですよね」
オヨンコアは、ウィレム、アンナ、ナルセス、レオポルドの顔を順に見まわす。確かにその場にいるのは、闘技会で勝ち残った四人だった。ただし正確には、既に勝ち残っているのはアンナとナルセスの二人だけになっている。
「それがどうかしたの」
「いえ、四人中三人が主催者の推薦というのは、何やら怪しいなと思いまして」
「私たちがイカサマしているって言うの、怒るわよ」
アンナが鼻息を荒げる。
「そう思う人もいるかもってことよ。一々つっかからないでちょうだい。猪娘」
二人はウィレムの肩を支えたまま、にらみ合いを始めた。隙を見つけては小競り合いを起こす二人にウィレムは深いため息をつく。
「それは取り越し苦労というものだ。最後には私が勝つのだから。そうなれば、誰もマレイノス家の不正など疑わないだろうさ」
ナルセスが胸を反らせて宣言する。気休めで言っているのではなく、本当にそう確信しているのだろう。横顔には自信が満ち満ちていた。
「私だって、負けるつもりはありませんよ」
今度はアンナが胸を張った。二人の視線がぶつかり火花が散る。
口元に不敵な笑みをたたえたまま、ナルセスがアンナに手を差し出した。
「いいだろう。その挑戦、受けて立つ。最高の戦いをしようじゃないか」
アンナがナルセスの手を取った。二人は固く手を握り合うと、健闘を誓った。