第4話 後顧の憂い
「後顧の憂いは、一切残さず断っておくのが宜しかろう」
ギョームの言葉は正鵠を射ていた。彼がウィレムの事情をどこまで知っていたかはわからない。ただ、ウィレムにとって、絶対に残して行けない事柄があったのは事実だった。
それを自覚しているからこそ、ウィレムは今、ここにいた。幼少より何度も訪れた応接室。高価ではないが、趣のある調度品に囲まれた部屋で、ウィレムは二人の男女と正対していた。
男の方は細身で、人の良さそうな顔に立派な口ひげをたくわえている。領地こそ狭いが、ウィレムと違い、爵位を有するれっきとした貴族である。
女は男の妻であり、夫とは反対に非常に恰幅が良い。厳かではあるが、けして高圧的ではなく、そのたたずまいには品の良さがにじみ出ていた。
親の代からの付き合いで、昔からとても世話になった二人である。ウィレムにとっては、タルタロス派遣がなければ、義理の親になるはずだった人たちでもある。
「アンナとの婚約を破談するというのは、本気なんだね」
アンナの父、シャルル・メリノは、失意の念を隠そうともせず、力なく尋ねた。
「はい。今回の旅に生きて戻れる保証はありません。結婚してすぐにアンナを未亡人にするのは、忍びありませんから」
冷たい空気が室内に立ち込めていた。
唇を縫い付けられたように口が重い。それでも、ウィレムは相手から視線を外すことだけはしなかった。不義理への償いには足らないとしても、真摯な態度で臨むことが、自分に出来る精一杯だと思えたからだ。
「あれは末娘だからね、私も随分と甘やかしてしまった。じゃじゃ馬娘の手綱を預けられるのは、君だけだと思っていたのだがね」
シャルルはどこか懐かしそうに中空を仰ぎ見た。
ウィレムには返す言葉もない。
「王命ならば仕方がない。わたしも君の健闘と無事の帰還を祈るとしよう」
いつも以上に優しい笑みがウィレムに向けられていた。ありがたくも心苦しい送別の辞であった。
「ウィレム、貴方は本当にそれで良いのですね」
隣から、静かな、それでいて身体の芯を振るわせる声が再度尋ねる。
自分に向けられた真っ直ぐな視線を、ウィレムは正面から受け止めた。嘘も誤魔化しも通じない目、幼い頃から自分やアンナを叱り付けてきた目だ。だが、厳しさの中に深い愛情があることもわかっていた。
この目があったから、アンナはただのお転婆娘ではなく、貴族の令嬢に足る作法と教養を備えた女性に成長できたのだろう。
「未練は、ありません」
ウィレムは、自分の最愛の人を育ててくれた二人に、改めて深々と頭を下げた。
何かが廊下を走っていくような音がしたが、三人は気にも留めなかった。
部屋を出る時、アンナに会っていくかと尋ねられたが、丁重に断った。会えば、決心が揺らいでしまう気がしたからだ。
屋敷の扉を出た所で、ウィレムは一度だけ振り返った。見慣れた石組みの壁も、赤い三角屋根も、見納めかもしれないと思うと感慨深い。
郷愁を振り払って歩き出すと、中庭の向こう側に人影が見えた。美しい白のドレスからスラリと伸びる細い腕を胸の前で組み、ウィレムの行く手を塞いでいる。風に吹かれて揺れる柔らかな髪は、彼女の心を映すように赤々と燃えていた。睨みつける瞳は、微かに潤んでいるようだった。
最も会いたくて、どうしても会えない相手だった。
ウィレムは黙って通りぬけようとしたが、腕を広げたアンナに邪魔されて進めない。
「聞いたわよ。婚約破棄なんて、冗談よね」
既に声には嗚咽が混じっている。こんなアンナは、愛馬が死んだ時以来見たことがなかった。
「すぐに戻って、全部嘘だって謝りましょう。今なら、母さまも父さまも許してくれるわ」
「こんなこと、嘘で言えないよ」
極力感情を取り去るように努めた。喉は無機質な音を出しだけの器具だと言い聞かせた。
アンナの頬を雫が伝う。言葉はなく、意味を持たない嘆きだけが激しく空気を揺らし続けた。ウィレムは為す術なく、自分の胸を叩き続けている駄々っ子のような小さな拳を、受ける続けることしか出来なかった。
泣いて怒るアンナは美しい。そして、そんなことを考える自分がとてつもなく浅ましく思えた。
日が傾き、辺りの暑さが峠を越えた頃、アンナの鳴き声は途切れた。
ウィレムの服には無秩序な皺が寄り、所々に濡れ染みが出来ている。
「どうしても、心は変わらないの」
「ごめん」
最早、それ以上の言葉はない。しばしの沈黙が二人を包んだ。
屋敷を巻く風の音と野鳥の鳴き声、どこかで薪を燃やしている匂いだけが、その場を満たしていった。
「わかりました。これで私とウィレムさまは他人同士です。どうかお元気で。お役目の成就、心から祈っております。それから、やっぱりこれはお返ししますね」
絞り出すように最後の言葉を残すと、アンナは一直線に屋敷の方へ走り去った。
中庭には、立ち尽くすウィレムだけが残された。彼の手の中には、アンナが置いていった銀のブローチが空しく握られていた。